不幸な事実は存在しない
別のエントリーで書いた「幸せは自己満足の数で決まる」と同じように不幸かどうか決めるのは自分で周りが決めることではないと思う。
あの人は可哀想とか不幸そうだな、不憫だなと思うの他人の気持ち。評価は周りが勝手に決めること。こちらでコントロールすることはできない。
だから
周りの評価(気持ち)=幸福or不幸
だと思うと辛くなります。
コントロールできない他人の気持ちを価値基準にしてしまうと、自分で幸か不幸かをきめられない。つまり自分の幸福感を自分で制御できずにとても不安定になってしまう。
病気の僕は不幸らしい
ずっと健康でしたが今年に人生で初めて入院と手術を経験しました。顔面半分が麻痺になり話すことと食事が少し不便になりました。治るのにあと1年くらいかかるそうです。
顔面が変形するというわかりやすい症状なので周りはだいぶ心配してくれました。しかもすぐに治らずに1年かかるのでさらに不憫に思われます。
おそらく周りのほとんどの人が、こんな病気になってしまってこの人は不幸だなと思ってる気がします。
病気でよかったこと
最初は、なんでこんな病気になったかなぁと凹みましたが、すぐに切り替えました。凹んだところで病気が良くなるわけではないので考えないことにしました。
逆にこの状況を活用しようと思いました。
入院で時間あるから最近できてなかった読書をしようとか、入院して会社行かないから気兼ねなく夜中までワールドカップ見ちゃおうとか。
病気という事実は変わらないけどそれを不幸な事と思うか思わないかは自分で決めること。
僕の顔を見て周りがうわぁって顔を一瞬したり心配しすぎたりされると不幸な人っぽいけどそれは周りの感情(評価)なので僕がどうにかできることではない。気にしても仕方ない。
病気のおかげで朝を気にせずワールドカップを楽しめました。読書たくさんできました。強がりでもなく病気になってラッキーだなと思いました。
不幸な事実は存在しない
数年前に母がガンで他界しました。
すごく悲しくて泣きまくりました。いまでも寂しく思うときはあります。でも、たまに介護を苦に親を…みたいな事件みると、あのタイミングで死んじゃったから介護で悩んだりしないで済んだなぁーなんて思ったりもします。
母が死んだ事実は一見、不幸なことに思えますが、その事実自体に不幸とか幸せってのはなくて、それに対して自分がどう思うかで不幸な事実になったり幸運な事実になったりする。
つまり決めるのは自分次第。他人がどうこうとかは関係ない。
それだったら幸せだったなぁって思うことを多くしたほうが幸せな人生なんじゃないかなと思ってます。不幸な事実というものは存在しないんだと思う。