生命と記憶のパラドクス(福岡伸一)【書評#133】

 福岡伸一さんのエッセイ集。福岡さんの日々の記録でありながら、生物学の勉強なる本だった。

 植物から動物への進化には必須アミノ酸が重要なカギを持つのではないかという説。どこまで正しいかはわからないが実際にあり得そうだ。

 福岡ハカセは次のように考えている。あるアミノ酸が生命に必須となった瞬間、生物は「動物」になりえたのだと。食べ物を探査し、追い求め、獲得すること。これはすべての行動の原型である。必須アミノ酸が生まれたことによって、生物は自ら動くことを求められ、自ら行動しうるものが選抜された。そしてそのことが生命にさらなる発展をもたらした。視覚や嗅覚や味覚もこのプロセスで獲得されたのではないか。自前で合成できないこと、つまりウォント(want)が、生命の進化にとってにわかに輝かしい鍵となったのである。 p.30

 進化という言葉は数万年レベルでの話だけでなく、人間が関わったことによるもののあるようだ。

ニワトリ、カイコ、ブルドッグ……人間がその進化のプロセスに介入し、自然になりかわって選択者としてふるまい、作りかえ、新たに生み出した生命。その生命たちはもはや人間なしでは生きていくことができない。一方、人間もまたそんな生命に助けられ、あるいは支えられて生きている。これは人間と人間が作り出した生命との新たな共生関係とも呼べる。 人間が登場して以来、進化の歴史は新しい局面を迎えた。人が作りかえたいのち。それに対して人間はきちんと責任を取らなければならない。 p.82

 腸内細菌でどのような食べ物が食べられるかが変わるのが面白い。

 最近、DNA解析の方法が進んで、外に出すと死んでしまう腸内細菌でも、その死骸から種類を分析できるようになってきた。すると意外なことがわかった。腸内細菌の種類は、ヒトが住んでいる地域ごとに違っているのだ。たとえば日本人の消化管内には、海藻の成分を分解できる腸内細菌が存在するが、欧米人の腸内にはない。考えてみればこれは当然のこと。腸内細菌もまたその風土に由来し、時間をかけて風土に応じた共生関係を形成するのだから。 海外旅行に出て、お腹の調子がへんになるのもひょっとするとこういうことかもしれない。現地の食べ物の衛生状態が悪いというよりは、私の腸内細菌との相性が悪いのだ。生まれ育った場所のものを食べることは生物学的にも合理性があるのだった。 p.88

夏井睦『炭水化物が人類を滅ぼす』にも腸内細菌の記述がある。そこでは、青汁だけの摂取で生活している人を例として、そのような人たちが生きていられるのは腸内に青汁から栄養をとることに特化した腸内細菌がいるからではないかという仮説が述べられている。

かつて生物進化論の先駆者ラマルクが十九世紀初頭、想定していたように、個体がそれぞれ、世代を超えて、その方向に変わろう、変わろうとがんばれば、だんだん身体も変わっていく、というような進化の仕方は、二十世紀、DNA→RNA→タンパク質、という構図が明らかになるにつれ、「ありえないこと」と考えられるに至った。 親から子に伝わることがあるとすれば、それはすべてDNAの情報として伝わる。もし形質に変化が出現するとすれば、それはすべてDNA情報の変化(たとえば文字がミスコピーされてしまうような突然変異)が原因となる。そしてその変化はランダムにしか起こらない。 しかし、ここが科学の面白いところだと福岡ハカセは思うのだけれど、一度は否定された思想が、新しい光によってまた照らし直されるということがあるのだ。しかも、いったんはラマルク説を完全に否定した、DNA→RNA→タンパク質、という構図がより精密に解析されることによって。それが最近、がぜん注目されはじめた「エピジェネティクス」という研究分野である。 DNA上の文字情報(遺伝暗号)自体にはなんら変化がないにもかかわらず、RNA量やタンパク質量に変化をもたらす別の新しい重要情報が、DNAに書きこまれていることがわかってきたのである。これまでDNAは、遺伝暗号の文字の部分ばかりが調べられてきた。だが、化学物質としてのDNAには、たとえば文字を表わす環の一部に、メチル基というほんの小さな標識が付くか付かないかで、その部分のDNA情報をRNAにコピーするかどうかを決めるような仕組みがあることが判明した。さらに驚くべきことは、どこにメチル基が付くかということは、親から子にそのまま伝わりうるという事実だった。 つまり遺伝子スイッチのオン・オフの様式が「遺伝」しているということ。これは極めてラマルク説に近いということができると福岡ハカセは思う。天国でラマルクは何を思う……。 p.108-109

遺伝子そのものは変わらないが、どの遺伝子をコピーするかは親から子へ遺伝する。生物の順応性の高さの原因の一つなのかもしれない。

雄は、本来、雌の使い走りだったのだ。しかし雌は欲張りなので、そのうち単に遺伝子を別の雌に届けるだけでなく、帰り道、食料や水を取ってこさせたり、棲み家をつくらせたり、あるいは花でも摘んでこいという具合に雄を便利に使い始めた。そうしないと交尾させてもらえなくなった。おみやげがないと怒られるようになった。そこで雄たちは汲々とするようになり、ちょっと余分に獲物があったようなときには、それを帰路のどこかに佇め、隠すことを覚えた。あるいは、雄どうしで交換したり、貸し借りするようになった。 これが契約を作り、経済を生み、社会を作り出した。モノ集めの起源も実にここにあったのではないだろうか。 p.150

もともと有性生殖のためだけの存在だった、雄が社会の人間社会の中心にまで成り上がった理由の福岡さんの仮説。雌雄の話は福岡伸一『できそこないの男たち』により詳しく書かれている。


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