見出し画像

【僕たちはどう生きるか(森田真生)】うえこーの書評#112

森田真生さんの最新刊。著者自身が述べているとおり、内容に数学要素が入ってない初めての本だ。

 内容はコロナ禍の著者の記録を元に話が進んでいく。

「感染のピークを下げる」ことも「気温上昇を抑える」ことも、どちらも未来のために、現在の行動を変えることである。だが、抑えるべき感染のピークがやってくるのは、地球の平均気温が二度上昇してしまう日が来るよりも早い。気候学者が何十年も先の未来を語るとすれば、感染症の専門家は、数週間の未来を警告している。この「未来の近さ」が、危機に対する反応の違いとなって表れているのかもしれない。
p.20

 たしかに環境問題の対策とコロナ対策ではスピード感が全然違った。町の至る所で消毒液や検温器が配備され、町中の人間がマスクをするまでそこまで時間がかからなかった。対して、環境問題の対策は10年単位では差があるが、劇的な変化はない。

 PCR検査によるリアルタイムのモニタリングと、数理モデルに基づくシミュレーションによって、災害に「未来が組み込まれている」ことが、今回のパンデミックの大きな特徴だと指摘しているのは、京都大学の瀬戸口明久だ。(…)
 僕たちはもはや、ただ「現在」のなかだけに引きこもることはできなくなっている。計算によって未来を予測し、過去を解釈しながら、僕たちが生きる時間は、過去と未来へ大きくはみ出している。
p.64


 そもそも学校という場は、異様なほど多様性の低い空間である。教室や校舎のなかには人間以外の生物種がほとんどいない。生態系との繋がりを絶たれた上で、外部から肥料や農薬を与えられる野菜のように、子どもたちは、外部環境との交流をほぼ絶たれた空間で、あらかじめ決められた手順で知識を注入される。
 教室での学びは、社会や経済からも切り離されている。このため、学ぶことが生きることと連続している実感を得にくい。教室での学びと現実の間に、わずかに接点があるとすれば、それはいつか進学する大学への入試や、就職するかもしれない企業への入社など、遠い将来の「出口」に集中している。
 だが、学びはもっと、人生に直接かかわる営みであっていいはずである。よりよく生きるために学ぶ。これこそが、学びの原点ではないのか。
p.82

 教室は人間以外の生物がほとんどいない点で多様性がない。それに加えて、周りの生徒も自分が生まれた年度と同じ人しかおらず、年齢の多様性も低い。同じ年代だけでは、全く違う考えも出てきにくいだろう。生物の多様性に加え、年齢の多様性もある場が必要だ。

 肝心なことは、未来世代からの制裁を恐れて、恩返しが始まるのではないことである。自分が受け取った以上のものを返したいという、自発的な思いから恩返しは始まる。未来世代の生存条件を不当に剥奪していることへの罪の意識より、現在自分が受け取っている恵みに対する感謝の思いの方が人を強く突き動かすことがある。
未来からこんなに奪っていると、自分や、子どもたちに教えるより前に、いまこんなにも与えられていると知るために知恵と技術を生かしていくことはできないだろうか。
p.163

 最後に、本の内容ではないが、著者の説明欄が素晴らしいものだった。

1985年生まれ。独立研究者。2020年、学び・教育・研究・遊びを融合する実験の場として京都に立ち上げた「鹿谷庵」を拠点に、「エコロジカルな転回」以後の言葉と生命の可能性を追究している。

出身大学や肩書など「著者が何者であるか」というどうでもいい情報はなく、「著者がどのような活動をしているか」にフォーカスが当たっている。
しかも、この説明を読んだだけでは結局何もわからないのが良い。むやみやたらに分かりやすさが求められる時代にこそ、著者のような一言では説明しきれない、わけのわからない方が必要だ。

Amazon.co.jpアソシエイト


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?