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「私が死んだら」


人の死というものが割と身近に感じられるお寺に住んでいるので、我が家では「私が死んだら…」という会話を日常的にする。

私は現在40代後半。死に至るような病にかかっているわけでもないし、ましてや自ら命を断つような事を考えることはない。なので、まだまだ遺品や財産についての話は一切出ないのに。

季節ごとに好きな食べ物を食べながら「もし命日が今の季節なら毎年命日には大好きなこれをお供えしてほしい」とか、母の日のお供え物を「ひいおばあちゃんはアイスが好きだったらしいし、おばあちゃんはパフェが好きで、お母さんはチョコが好きだから、母の日のお供え物はアイスと生クリームと板チョコ盛り盛りのパフェがいい。お供えして手を合わせたら誰かのおかわり用にしていいから。」とお願いする。

きちんとした格好をして撮った写真があれば「遺影の最新候補ね」と家族で言い合うし、それから、歴史ドラマを見ては気に入った登場人物のお戒名を調べて「このお戒名のこの漢字いいね。私の戒名の字の候補に入れておいて。もっと相応しいのがあったらそちらにしてもらえばもちろんいいけど。」と言ったりもする。

もちろん夫の両親とも同じような感じで、「お父さんは赤いお花が好きなのよ。私は紫とピンクが好きだけど。」と義母が言うときに想像しているのはお仏壇の花。もう着られないけれどとても気に入っていた着物を捨てられないときには「お棺に入れようかね。」となったり。

でもそれは、お寺の人だからこそのブラックジョークな訳ではなくて、「人は死ぬもの」として生活しているからのような気がしている。
家族が亡くなって悲しくて放心状態になってしまいそうな時に、かつて本人が楽しく笑いながら「こうしてほしい」と言っていたという思い出があれば、つらい気持ちながらに亡くなった人のために動くことができる。そして、それが食べたり飲んだりするものならばなおさら、悲しみにくれながらも亡くなった家族のために用意をして、必然的に今生きていかなくてはならない家族も口にすることによって残された家族の生きていく力にもなるんじゃないかと思う。

お寺の住職さんたちは、よく「思い出話も御供養になる」と言う。
亡くなった人を、いま生きている人たちが思い出して語り合ってくれることがその人の生きた証で、それをすることはすなわち御供養なんだとか。
でもそれってつまり、なくなった人のことを一緒に話せる人間関係があるか。大事な人を亡くした後も食事をとったり身綺麗にしたり、人に会ったり…所謂「生活」を続けられているか。自分のことも大事にできているか、ということのようだ。

それはそうか。大事な人を亡くしたということは、亡くなった人からしても大事な人を遺していってしまったということ。
遺された大事な人がたくさんの幸せな笑顔を思い出せるように、あらゆる場面で「死」と併せて「好きなもの」と「楽しかった思い出」を生きているうちに語っておくのがいいと思う。

倶會一處(倶会一処)。いつか、「また同じお浄土で出会うことができる」という教えが心の支えになるよう、大事な人に再会するまでの毎日を彩ってくれるのは、やはり生きているうちの会話なのではないだろうか。

「私が死んだら」…そうだな、まずは美味しいものを食べてよく寝てほしいな。

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