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大河『太平記』の歴史探訪記③ 大舘宗氏は何処に埋葬されたのか?廃神社から始まる旅〜
ここに紹介する大河ドラマ『太平記』は鎌倉幕府の執権、北条氏の滅亡と足利尊氏が後醍醐天皇と争って室町幕府を開く迄の覇権争いを描いた中世の物語です。
1333年頃の約七百年前の実話を元に、製作当時の人気役者達が南北朝時代に運命を委ねた人々を華麗に演じています。足利尊氏を真田広之、南朝を樹立した後醍醐天皇を守る武士の新田義貞は舞台役者の根津甚八が熱演しました。
鎌倉には骸骨のカケラがゴロゴロ?
鎌倉にはそんな武士達の歴史の痕跡や史跡が今でも多く残り、当時の有様を偲ぶことができます。司馬遼太郎の『街道をゆく42/三浦半島記』には「学校の校庭に、道端に白骨の破片が散らばっている」(p.303)とあり、「合戦が終わると心ある人物が穴を掘って敵の死骸を埋めた。深く掘らなかったのであちこちに骨が露出する」ということが書かれています。戦火に次ぐ戦火で小さな墓石を建てる暇すらもなかったということでしょうか。
この頁に出て来る鈴木尚博士(東京大学名誉教授・医学博士)は1333年の鎌倉幕府滅亡に至る戦死者の遺骨を約2000体も発掘したいうことですから、鎌倉は山と海に囲まれた自然の要害であるとともに、街全体が鎌倉武士の棺のような役目を果たしているのでしょう。おそらくまだまだ、発掘されていない武士の骨がそこかしこに埋まっている筈です。
稲瀬川の碑に大舘宗氏の名前が…
そんな鎌倉の、由比ヶ浜を散歩していると稲瀬川に差し掛かり、黒い石碑が建っているのを見かけました。
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この地は政子にも頼朝にも縁のある場所、そして新田義貞が鎌倉攻めをする際に義貞の當手(味方)の大将、大舘宗氏(おおだち・むねうじ)が討ち死にした場所であると書かれていました。こんなところにも「太平記」の秘話が...と思いながらさらに長谷寺駅の方角へ134号線の歩道を歩いていると、小さな古い神社を発見しました。(もしや、知られていない道祖神や石仏でも...?)と期待して参拝すると「長谷御岳神社」と書かれた石碑が建立されていました。
大太刀稲荷神社は大舘宗氏を弔ったもの?
その隣に廃神社のような社を発見しました。「大太刀稲荷神社」と書かれた額があり、気になって調べてみると、この付近で大舘宗氏が戦死したので「おおだち神社」を建立したとの言い伝えがあるが、それも定かではないとの事。
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鎌倉攻めの猛将、大舘宗氏の足跡を訪ねて
廃神社の侘しさに心傷んだ私は大舘宗氏の足跡を訪ねることにしました。大館氏は由比ヶ浜の狭いエリアで戦ったので短い旅でもなんとかなるでしょう。今わかっている事は大館氏は新田義貞の大将である事、そして稲瀬川付近で戦死している事です。
まず「大舘氏の墓所」で検索すると「十一人塚」というのが出てきました。由来は新田義貞の大将大館氏が極楽寺切り通しから鎌倉を攻めようとしたが迎え撃つ北条軍の猛攻に稲瀬川付近で討ち死にした遺体を祀ったものだと書いてあります。
さらにwikipediaによると、大舘氏らの遺体は一旦は御霊神社の付近に葬られ、十一面観音像が祀られたが、のちに改葬されて稲村ガ崎駅付近にある「十一人塚」に葬られたとあります。
石碑の言い伝えと合致しますので、戦死した場所は稲瀬川付近で間違いないでしょう。戦死の日付は1333年7月1日。享年46歳の男盛りでした。
稲瀬川で大舘氏が討ち死にした後、指揮系統を失った大舘軍は息子を大将にしますが、新田軍きっての勇将の戦死に総大将の義貞が出張ってきます。大館氏の戦死は戦局の流れを変えたのです。そしてそれは鎌倉幕府が焼け落ちる運命を早めたのでしょう。
由比ヶ浜から稲村ヶ崎までは江ノ電で四駅。
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十一人塚のある稲村ヶ崎へ
何より稲村ヶ崎は太平記ファンには堪らない新田義貞徒歩伝説のある場所です。難攻不落の切り通し(岩盤を切り開いて作られた道)を抜けて鎌倉に攻め入ろうにも道は狭く丘陵が続く。人馬の入れる道はない。そこで大舘氏の亡き後、義貞は海岸線を伝って鎌倉の地に攻め入ろうとします。しかし稲村ヶ崎の波は高く、人を寄せ付けない。義貞は黄金の太刀を抜いて八幡大菩薩に祈ります。「我をここより通らせ給え」太刀を海に投げ入れるとあら不思議、瞬く間に潮が引いてモーゼの如く鎌倉入りできる道が開いたのです。新田軍は松明を掲げながら鎌倉へなだれ込んだ…(第22回「鎌倉炎上」)
その太平記ファン憧れの場所、稲村ヶ崎。ついに…!
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正直な話、実際に稲村ヶ崎を見たときの感想は「え、ここ歩けるの?」でした。ドラマで見た通りにはいかないんじゃないかなぁ…写真の左側に黒い階段がありますよね、そこあたりに道を作って渡ったんじゃないかなぁ…
大舘宗氏の討ち死にした場所は何処だ
まず、大館氏の討ち死にした場所は稲瀬川となっています。
あと一歩、鎌倉幕府というところで激戦の上、打たれた。そして葬られたのは最初は御霊神社付近、改葬で十一人塚。稲瀬川と御霊神社はかなり距離があります。
混乱の中で埋葬されたのか?文献「大舘宗氏とその子孫」(p.152)によると、「都を死守せんと猛攻撃の北条軍に大舘氏は討ち死にし、総退却を余儀なくされた」とあります。「大舘氏の息子たちは涙を飲んで屈強な郎党たちに命じていち早く大舘氏の遺骸遺物を収容し奮戦しつつ退却した。その遺骸は 主従同穴に極楽寺川の左岸に埋葬した。大舘氏の死は新田軍を頓挫せしめたが、この頓挫が一発奮起を呼んで鎌倉攻めの成功を呼んだ」というようなことが書かれています。
wikiには大舘氏は御霊神社の付近に埋葬されたとありますから、極楽寺川左岸と御霊神社の中間付近に埋葬地があったと考えられます。当時は十一面観音像が祀られていたと。
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埋葬されたのは極楽寺橋付近で戦死した場所は稲瀬川、おそらく大太刀稲荷神社のあたりではないかと思いますが、どうでしょうか。
Google mapsから大太刀稲荷神社を見ると横は稲瀬川とあります。昔はここが稲瀬川の本流?
それなら、まさしく神社の場所が大舘宗氏の討ち死にしたところだと言えますが、なんとも決め手にはかけます。
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今までの調査をまとめますと、埋葬されたのは極楽寺橋付近で後に十一人塚に改葬、戦死した場所は稲瀬川、おそらく大太刀稲荷神社のあたり、となりますがどうでしょうか。
十一人塚の骨は誰のもの?
宅地開発か何かで発掘された鎌倉時代の武士の遺骨は文献と照らし合わせると、大舘宗氏とその主従たちのものに違いありません。極楽寺橋に埋葬された当時は十一面観音像があり、お堂があったという事ですが、時を経ていつの間にか埋没し、造成工事中に遺骨が発見されたという事でしょう。そこからなぜ今の場所に遺骨の一部が運ばれ、十一人塚になったのかはわかりませんが、改葬当時は稲村ヶ崎の海を眺める良い場所だったのではないでしょうか。
ともあれ、鎌倉攻めの猛将とその主従たちの墓がこんな風に細々と守れられているのには感激しましたが、遺骨が発見された時にきちんとした墓に埋葬してあげてほしかったな、という気持ちにもなります。鎌倉時代の侍大将としてはあまりに寂しい墓跡じゃないですか。大太刀神社もボロボロでしたし、なんだか奮戦した割に、現代の扱いは粗末にしすぎじゃないかな。総大将の新田義貞は敗軍の将になりましたから仕方ないのかな。
それから大舘氏は東大の研究資料になったことを喜んでいるのでしょうか。そのうち、答えを聞きに遺骨の標本がある本郷の東大博物館に行ってみようと思います。
廃神社を発見したことによる私の大舘宗氏の埋葬地を探す旅はこうして終わりを告げたのでした。(了)
追記:大舘宗氏は新田義貞の姉を妻に迎えており、義兄である事がわかりました。それから埋葬場所と発掘場所の記述に合わない点がある事などから、もう少し調査を進めます。