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道徳授業で大切なこと⑵

前号では、道徳授業で大切なこと⑴本気で考えたくなる「問い」について投稿させていただきました。

本号では、道徳授業で大切なこと「第2弾」の「困っている子どもに目を向ける」について述べていきたいと思います。

⑵ 困っている子どもに目を向ける

教室の中には、様々な子どもがいます。
例えば・・・
自分の考えをどんどん発表する子ども
理解は早いが意見を言わない子ども
理解が遅く自信がない子ども

子どもたちの姿を図で表すと次のように分けることができのではないでしょうか(図1)。

図1  授業中の子どもの姿

多くの授業パターンとしては図1のAの子どもが主役になってしまいます。
【多くの授業パターン】
教師の質問(発問)に対して、Aの子どもはより的確な発言をしてくれます。自ずと教師は、Aの子どもを指名して授業を進めます。
たまに、元気のいいCの子どもが発言することもありますが、的を得ていない発言であったりすると
「そういう考えもあるね」
「他には」
と言って軽く受け流されてしまいます。
その結果、最初は元気に発言していたCの子どもも、段々、自己表現をしなくなってきます。
そして、高学年になると発言する子どもは限られ一部の子どもだけで授業を進めていかなければならなくなるのです。

それは、子どもにとっても教師にとっても、苦しい授業です。

ではなぜ、教師はAの子どもを授業の主役にするのでしょうか。
それは・・・
その方が授業がスムーズに進むからです

教師は「限られた時間内」で、「決められた指導内容」を子どもに教えなければならないと考えています。
そんな教師の強い使命感が「困っている子ども」に蓋をしてしまっているのです。
「子ども全員が生き生きと授業に参加してほしい」
という思いは、どの教師でも思っています。
しかし・・・
「ちゃんと教えなければならない」
「時間が足りない」
という思いから、どうしてもAの子どもに頼ってしまい授業を進めてしまうのです。

本号では、そんな教師の悩みを解消する方法を紹介します。

① 「今、当てられたら困る人」


この言葉は授業名人である元筑波大学附属小学校副校長である田中博史氏の言葉です。

わかった時だけ手をあげていた子どもたちだが、わからない、困るという場面でもどんどん手をあげていいのである。
学校に来るのはわからないことがあるから。
それをわかるようにしてもらうために、子どもたちは学校に来るのだと考えたら、大いに困ったことを表現させてみたいのもだ。
今、当てられたら困る人?困ることは悪いこと?いや学校では、困っていいのだよと告げるのである。そして友達同士で困っていることを表現し合って互いに助け合って学びを前進させるのでいい。

東洋館出版社「田中博史の算数授業4・5・6年&授業を支える学級づくり」

この言葉に出会った時には衝撃を受けました。
同時に、この言葉で困っている子どもに目を向けることの大切さを知ることができたのです。

まずは、困っていることを教室の中に表出させる。
それを、みんなで一緒に考えていく。

当たり前で単純なことですが、私は「教えなければならない指導内容」ばかりに捉われ過ぎて、この当たり前のことを見失っていたのです。

【今、当てられたら困る人】という言葉の効果

○わからない人や困っている人が挙手して主役になれる。
○Aの子どもの目的意識が「教師へ正解を応える」ではなく、「困っている仲間を助ける」ための発言に変わる。
○つまり、子ども同士をつなげる架け橋になる。

この言葉を教師が意識して道徳授業にも活用することで、教室の雰囲気がガラリと変わり、子ども一人ひとりの生き生きとした表情が見られ始めるのです。
例えば・・・
( 教師 )  :登場人物が諦めずに目標を達成できたのはなぜでしょう。
(子ども):⦅数名が挙手⦆
( 教師 )  :今、当てられたら困る人?
(子ども):⦅多くの子どもが挙手⦆
( 教師 )  :⦅困っている子どもを指名する⦆どうして困っているの。
(子ども):何となくはわかるけど、うまく言葉にできない・・・
(子ども):そうそう。なんて言ったらいいんだろう・・・
( 教師 )  :それじゃ、今日はその言葉を探してみましょう。

たった、これだけのやり取りかもしれませんが、困っている子どもに目的意識を持たせることができます。
何より、困っている子どもが「自分の考え(困っていること)で授業が進んでくれている」という安心感を与えることができます。
その安心感が学びの原動力になるのだと思うのです。

② 感性を刺激する「問い」

全国的にも話題になった「考え、議論する道徳」というキーワードが叫ばれてから、道徳研究においては論理的思考・批判的思考・創造的思考などの思考スキルの重要性が増してきているように感じます。

つまり・・・
道徳授業では、物事が正しいとされるべきことを、筋道に基づいて考えたり、判断したり、話し合ったりする能力が求められているのです。
それは、決して間違ったことではなく求められている力だと思うのですが・・・

そのことばかりに捉われていると、先程のように「困っている子ども」に目が行き届かなくなってしまうのです。
例えば・・・
【道徳授業の場面:低学年】
(先生)どうして、オオカミさん(登場人物)は優しくなったのだろう?
(子ども)くまさん(対人物)に優しくしてもらったからだよ。
(先生)〈・・・少し言葉が足りない。論理的に考えさせるために問い返してみよう〉
(先生)どうして優しくしてもらったら、優しくなるの?
(子ども)〈え〜、どうしよう。なんて言ったらいいのかわからない〉
(子ども)・・・わかりません。

このように、教師は良かれと思って問い返したことが、頑張ってみんなの前で発言した子どもを、逆に困らせてしまう可能性があります。
そう考えると、教師は子どもに論理的に考える力を育てることも大切ですが、子どもの「何となく◯◯だと思う」という感性の部分にも目を向ける必要があるのはないでしょうか。

では感性とは・・・

感性とは、「今、ここ」での五感を通した感覚の働きを意味する用語で、言葉になる以前の非言語的、直感的、主観的な知見と判断のことを指す。言い換えるなら、それは包括的、直感的に行われる心的活動およびその能力のことであり、一挙に物を包括的にとらえて、言語や概念を用いた思考回路を介さずに、結論が瞬時に得られるというような精神の働きのことを指す

鹿毛雅治「学習指導要領の未来:人間らしい学びと「生活科」「総合」」

道徳科では、子どもは論理的思考を働かせるよりも先に感性を働かせて表現するはずです。
それは、子どものこれまでの経験を通した直感的な能力なのだと思います。まずは、その感性を大切にすることが重要なのです。

では、先ほどの場合はどうすればよかったのでしょうか。
このような展開はどうでしょう。

(先生)どうして、オオカミさん(登場人物)は優しくなったのだろう?
(子ども)くまさん(対人物)に優しくしてもらったからだよ
(先生)へ〜。そうなんだ。すごいパワーだね。

*すぐに問い返すのではなく、一度、子どもの感性を受け止めます。
そして・・・

(先生)でも、人が優しくされて優しくなることなんてあるのかな?

と感性を刺激するような「問い」を行います。
すると、多くの子どもは「ん〜、どうだろう」と自分の経験を想起し始めるでしょう。
そして、1人の子どもが・・・
(A子)あ!あるよ。
と呟くことでしょう。そこで、すぐに発表させるのではなく、他の子どもたちとの感性にもつなげていくため、次のように共有していきます。
(先生)A子さんが「あるよ」ってつぶやいていたけど、少しインタビューしてみようか。
(先生)A子さん、それ学校であった出来事ですか?
(A子)そうだよ。
(先生)なるほど、では休み時間ですか?授業中?
(A子)授業中に消しゴムを落とした時のこと
(B子)あ!わかった。私もある。
(C子)私も見つけた。違う出来事だけど

このように、A子さんの僅かな言葉を手掛かりに、教師が間を作りながら少しずつ引き出してあげることで、他の子どもの感性を刺激するポイントだと思います。
そして最後に・・・

(先生)みんなも、友達に優しくされて優しい気持ちになったことあるんだね。そうやって、人って優しさが移っていくんだね。すごいね。

子どもから出てきた出来事を教師が丁寧に整理してあげるのです。

つまり、感性を刺激する「問い」とは・・・

◯子どもの経験を引き出すような「問い」
◯友達の言葉を手掛かりに経験を想起させる「問い」

この二つの問いを、さらに細分化していくことも可能です。その詳細は、別号で述べたいと思います。

教師は、無意識に100点満点の答えばかりを求めてしまいます。しかし、それだと子ども直感的な能力(感性)を見取れないばかりか「無駄な発言」と考えてしまい、多くの子どもを見落としてしまうのです。

そうならないために、まずは子どもの「感性を大切にする」ということを教師が意識することで困っている子どもに目を向き、次へのステップへ向かうことができるのだと考えてます。

本号では、道徳の授業で大切なことシリーズの⑵困っている子どもに目を向けるについて考えてきました。
次号では、⑶挙手に頼らないについて、私の考えを述べていきたいと考えています。

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