道徳科の「ねらい」について No2
前号では、教師がわかりきった言葉レベルの価値理解で授業を展開すると、子どもにとって新しい学びが生まれず、表面的で「退屈な時間」に陥ってしまうという課題について取り上げました。
また、「ねらい」の解像度を上げることで、価値理解を深めることができることについてもお伝えしました。
本号では、「解像度」を上げることが、他にどのようなメリットをもたらすのかを探り、さらなる可能性について考えてみたいと思います。
*前号と併せてお読みいただけると幸いです。
「解像度」を上げる3つのメリット
ねらいとする価値理解の「解像度」を上げることで、次の3つの大きな効果(メリット)が期待できると考えています。
(1) 指導方法が洗練され、道筋が明確に。
教師としての指導方針が明確になり、授業設計や実践において、ブレずに子供の発言を効果的に位置付けるとができる。
(2)道徳教育の深まりと質的向上。
道徳的価値の解像度を上げることで、子ども一人一人への行動や内面を丁寧に見取り、それに基づいて的確なフィードバックを提供することができる。
(3)学級経営力の向上につながる。
子ども理解が深まり、信頼関係を一層強化され、子供の成長を後押しする学級づくりが可能になります。その結果、互いに支え合う温かい風土の中で学びが促進される学級づくりにつながる。
さらに具体的に深掘りしながらご説明していきます。
(1) 指導方法が洗練され、道筋が明確に
前号でも触れましたが、分かりきった表面的な解釈にとどまったまま授業を進めてしまうと、次のような「発問」に終始し、学びや気づきの生まれない授業になってしまいます。
このように、「発問の工夫」が足りず、子どもの発言を深く読み取ることができなければ、授業の本質的な深まりは失われてしまいます。
その結果、教師は「教えたつもり」に、子どもたちは「学んだつもり」になり、学びの質が希薄になってしまうのです。
つまり、授業の軸となる「発問の質」に違いが出てくるのです。
では、授業の解像度を上げると、「発問」にどのような変化が生まれるのでしょうか。具体的な教材を例に考えてみましょう。
「はしの上のおおかみ」のねらいを以下のように解像度を上げて考えてみましょう。
そうすると、子どもに考えさせたいことや、気づかせたい価値がより明確に見えてきます。
この教材の場合、以下のような点にねらいとする価値を焦点化すると良いでしょう。
意地悪の「気持ちよさ」は、一時的な優越感や支配感を伴うが、その結果、周りからの信頼を失う可能性があること
一方、親切から生まれる「気持ちよさ」は充実感や達成感といった心温まる感情であり、相手と共感し、喜びを共有することで深い満足感を味わうことができること
同じ「気持ちよさ」でも、その質は大きく異なること
このように、教材が伝えたい深い価値を掘り下げることで発問の工夫も、より考えやすくなります。
上記の価値に迫るために「発問を工夫」していきます。
*導入と終末の発問は省いています。
先ほどの「発問」とは異なり、「親切」についての理解が深まっていることが分かります。
このようにねらいの解像度を上げることで、「発問の質」が高まり、子どもに新たな気づきを促す効果的な授業展開が可能になるのです。
(2)道徳教育の深まりと質的向上
道徳科の授業で大切な価値に気づいた子供たちが、日常生活でもその学びを生かせるよう、「今の気持ちはどちらの『いい気持ち』かな?」と問いかけることで、授業の学びを自然と思い出せるようにしていきます。こうした問いかけを続けることで、子供たちは次第に、道徳的な問題に直面したとき、自ら考え、選択しようとする力を育んでいくのではないでしょうか。
(3)学級経営力の向上につながる
道徳的価値の理解を深めるために「解像度」を上げると、教師自身の見える世界も大きく変わってきます。例えば、これまで子供が友達に意地悪をしたとき、「そんなことはしません」と指導していたと思います。
しかし・・
そんな場面も、視点を高める(解像度を上げる)ことで違った見え方になります。
「この子は、意地悪をすることで得られる“いい気持ち”を勘違いしているのかもしれない」と気づき、その違いを教え、より良い方向へ導く具体的な指導へとつなげられるのです。
つまり、道徳教育において「何を教えるのか」「どのように指導するのか」が、より鮮明になっていきます。結局のところ、人は“認知したもの”しか見ることができないのです。
以上が「解像度」を上げることのメリット3選です。
次回は、解像度を上げる方法について詳しく述べてみたいと思います。興味のある方はフォローして頂けると幸いです。