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私・今・神という「名」~「私」という名を発端にして~

まえがき

 本論文では、私・今・神(旧新約聖書における神)という「名」が何であるかを解明し、これらの「名」を私が用いるということがどういうことであるか、また、これらの「名」を私が用いることで、私がどのような事態に陥るかを解明する。

 第0部では、「私」という語が、その語を発する者が誰であるかに依存して2つの異なる仕方で機能することを明らかにする。
 第1部では、私・今・神という名を検討するための準備として、名詞が何であるか、人が名詞を用いることがどういうことであるか、また、人が人に名詞を教えることがどういうことであるかを解明する。また、名の特殊なものに「内包的に定義された名」というものがありうること、旧約聖書における神は自らを指す名を内包的に定義された名として提示したと解釈できることを述べる。
 第2部では、私が「イエス」という名を言い、「イエス」の名が書かれた福音書を読むことに伴って、概念的なカトリック教会が必然的に成立し、それによって私が不合理な状況に追い込まれること、(私の考える)カトリック教会が私をその不合理な状況から救い出すものであることを明らかにする。また、カトリック教会に抗議 (プロテスト) することを試みる。
 第3部では、「今」を、それを言う者に依存して意味が定まる内包的に定義された名として、2つの定義のもとで検討し、今によって、私と時間との間にどのような関係がもたらされるかを解明する。また、今に拘束された任意の者が、そのことによって、自らが出会うものを名指す一般的な方法を得ること見る。さらに、「この何々」として指されるものは、言語で言いあらわし尽くされ難い「モノ」であると考えざるをえないことを述べる。
 第4部では、「私」という語が何であるかの検討を、私と私の体及び他者と他者の体が何であるかの検討と区別せずに行い、私と私の体及び他者と他者の体が何であるかを解明する。また、私が、体を持つ他者とともに存在するためには、私は、「私の体はこの体である」と断言するか、私の体は存在しないと考えるかの、どちらかを選ばなければならなくなることを明らかにする。さらに、それぞれを選んだ場合で、私の体に感覚が生じるということや、私が私の体を動かすということが、私にどのようなこととして明らかになるか、あるいは、なりえないかを究明する。

 各部は各章に分かれ、各章は、0でない自然数n, mを用いて「n-m」の形で書かれる見出しを持つ部分に分かれる。「n-m」の形で書かれる見出しを持つ章の部分を、本論文では「節」と呼ぶことにする。

第0部 「私」という語の第1の機能

 私が、精神とは何であるかを研究し、その成果を伝えるには、一般的な研究と同じように、精神の定義を述べ、それに該当するものを調べるという手順を踏む必要がある。しかし、精神は他の精神から隔絶しているとされており、私は精神であるから、精神がどのように定義されるかにかかわらず、私が調べることができる精神の実例は私だけであることになる。そのため、私が、精神とは何であるかを研究し、その成果を伝えるには、一般的な研究と同じような方法をとるのではなく、私が調べることができる唯一の精神の実例である私を調べ、その調査報告をするのが適切であることになる。
 しかし、そのようなある精神の実例についての調査報告を「私についての調査報告」として提示することに対して、私は大いに不満がある。なぜなら、ここで用いられている「私」という語は、「「私」という語を発する者」というその意味を介して私を指示するとされるが、私が「私」の語で私を指すとき、「私」という語は、「「私」という語を発する者」という意味を介することなく、いきなり私を指すのであり、精神のある実例についての調査報告の調査対象を、その実例がその実例自らを指す仕方ではない仕方で指し示して提示するのは、いささか調査不足であるとのそしりを免れないと思われるからである。

 以上で、精神とは何であるかの研究及び調査報告に先立って、「私」という語が何であるかの解明が必要であると私が考える理由は説明されたと考えるが、私が、「私」の語で私を指すときに、「私」の語が私をいきなり指すと考えざるをえない理由は十分に説明されていないので、これを行うことにする。

 「私」という語が、仮に、「「私」という語を発する者」を意味する語であり、それ以外の何ものでもないとすると、私が「私」の語で私を指そうとして「私」と言うとき、発された「私」の語が私を指すことを確認するためには、私は、発された「私」の語を発したのが私であることを確認しなければならない。そして、その確認は私が「発された「私」の語を発したのは私である」と言うことによってなされるが、この言明の意味を私が言うことを意図した意味に確定させるためには、この言明中の「私である」の部分における「私」の語が私を指すことを確認しなければならない。このように、発された「私」の語が私を指すことの確認は、「私」という語が「「私」という語を発する者」を意味する語でありそれ以外の何ものでもない場合には、無限に必要となり、これは不合理である(ばかみたいである、absurd)。よって、私が「私」の語を用いるとき、「私」の語はいきなり私を指すと考えざるをえないのである。

 また、私が「私」と言うとき、「私」の語は私のみを指すと考えざるをえない。なぜなら、たとえ私が、「私が「私」と言うとき、「私」の語は私以外のものをも指すのではないか」と疑っても、この命題の「私が」と「私以外」における「私」の語が私のみを指していると、私は思ってしまっているからである。

 そこで、私が「私」の語で私を指すということにおいて私のみをいきなり指す「私」の語の機能を、「私」の語の第1の機能と名付ける。そして、「私」の語が「「私」という語を発する者」という意味を介して何者かを指示する機能を、「私」の語の第2の機能と名付ける。すると、1つ上の段落で示されたことは、私は「私」の語の第2の機能で自らを指すことができないということであり、したがって、少なくとも私が見る限りでは、「私」の語の第2の機能で自らを指す者は私でない者であるということになる。そこで、私とは、「私」の語の第1の機能で自らを指す者であり、他者とは、「私」の語の第2の機能で自らを指す者であると、さしあたり区分することにする。

 ここから先の部においては、まず、名詞一般が何であるか、名詞を用いることがどのようなことであるかを解明し、次に、その結果を用いる形で「神」、及び、「今」という名について論じ、最後に、「私」という名が何であるか、そして、私と他者が何であるかを解明することにする。また、この部の最初の段落で、私は、「私は精神である」と述べたが、これは必ずしも自明なことではないので、そうではないのではないかと問うこともできる。第1部、第2部においてはこれを問わないこととし、第3部においては必要に応じて問うこととするが、第4部においては、「私は精神である」という前提なしに、私及び他者が何であるかを考えることとする。

第1部 名詞が何かを指すこと、名詞が何かを意味すること

 この部では、第0部の最後の段落で述べた計画に基づいて、名詞一般が何であるか、名詞を用いることがどのようなことであるかを解明することにする。

第1章 種子島と種子島~名詞についての一般論~

1-1 外延的に定義された名詞、内包的に定義された名詞、名

 名詞は、外延的に定義された名詞と内包的に定義された名詞のいずれか一方にわかれる。

 外延的に定義された名詞は、それが何を指すかによって定義された名詞である。「九州」という名詞は、日本列島を構成し、その南西に位置する島を指す外延的に定義された名詞である。
 外延的に定義された名詞は、必ずしも一つのもののみを指すとは限らない。「Pocky」という名詞は、江崎グリコ株式会社が製造するもののうち、一部の、複数のものを指す外延的に定義された名詞である。また、外延的に定義された名詞は、必ずしも存在するものを指すとは限らない。「ドラえもん」という名詞はドラえもんを指す外延的に定義された名詞であるが、ドラえもんは存在しない。また、「アリストテレス」という名詞はアリストテレスを指す外延的に定義された名詞であるが、アリストテレスは故人であり、存在しないと考えることができる。

 内包的に定義された名詞は、その説明と同一視される名詞である。例えば、「マフラー」という名詞は内包的に定義された名詞であり、「マフラー」は「防寒用の襟巻き」であると説明される。「マフラー」が「防寒用の襟巻き」であると説明されるということから、「マフラー」と「防寒用の襟巻き」は同一視され、「xはマフラーである」のような、「マフラー」がその中に登場する文は、「xは防寒用の襟巻きである」のように、その文の中の「マフラー」を「防寒用の襟巻き」に置き換えた文と同じことを述べた文であるとされる。内包的に定義された名詞nに説明eが与えられるとき、「nはeを意味する」と言うことにする。
 内包的に定義された名詞は、原則として、何かを指すとは考えられない。なぜなら、指すものを列挙することによって定義することができない名詞が内包的に定義された名詞であると考えられ、仮に、内包的に定義された名詞nが何かを指すとしても、列挙できないほどに指されるものの数が膨大であることや、時間の経過に伴って新たに指されるものが出現することなど、nが指すもののすべてを把握することができない何らかの事情があるはずであり、把握できないものにまで説明を与えるのは適切でないからである。したがって、内包的に定義された名詞nは、原則としては、「xはnである」のように性質をあらわす語として機能すると考えるのが適切であり、場合により、文中の「n」が「nであるもの」と読み替えられるために、nが何らかのものを指しているように見えることがあると考えるべきである。

 ここで、何かを指す名詞を「名」と呼ぶことにする。これにより、名詞は、名と名でない名詞に分かれるが、外延的に定義された名詞は必ず名であるから、名詞は、外延的に定義された名詞、内包的に定義された名、名でない内包的に定義された名詞のいずれか一つに分かれることになる。1つ上の段落で述べたことは、内包的に定義された名詞は原則として名ではない、ということである。例外にあたる、「内包的に定義された名」については、第2章で検討する。

1-2 発言における名詞の非明示的確定性

 前節では、名詞が何であるかを、それが外延的に定義された名詞である場合と内包的に定義された名詞である場合のそれぞれについて解明した。本節においては、名詞を用いるということがどういうことであるかを明らかにする。

 「種子島」という名詞は、九州の南にある島を指す外延的に定義された名詞である。他方で、同じく「種子島」と書かれる名詞であって、火縄銃を意味する内包的に定義された名詞がある。これらの名詞はともに「種子島」と書かれるが、2つのまったく異なる名詞であるので、これらを区別する方法が必要である。

 そこで、これらの名詞を区別するために、「種子島」と呼ばれる島を指す名であって「種子島」と書かれるものを「[種子島1]」、火縄銃を意味する名詞であって「種子島」と書かれる名詞を「[種子島2]」とおくことにする。このとき、[種子島1]は種子島を指す名詞であるので、[種子島1]は種子島ではない。また、[種子島2]は火縄銃を意味する名詞であるので、[種子島2]は火縄銃ではない。

 [種子島1]は、文中で用いられるときには、単に「種子島」と書かれる。このことを、「[種子島1]は「種子島」という文字列を持つ」とか、「[種子島1]の文字列は「種子島」である」とか言うことにする。また、[種子島1]が指すものを「種子島1」とおき、文中の「種子島」の文字列を[種子島1]として読むように指定するための表現を「種子島(1)」と定める。このとき、「種子島(1)は、種子島1であり、種子島1は九州の南にある島である」となる。文字列Sを持つ外延的に定義された名詞[Sn](n=0, 1, 2,,,)についても、「Sn」、「S(n)」を[種子島1]と同様に定めることにする。

 [種子島2]についても、[種子島1]と同じように、[種子島2]が意味するものを「種子島2」、文中の「種子島」の文字列を[種子島2]として読むように指定するための表現を「種子島(2)」と定める。このとき、「種子島(2)は、種子島2であり、種子島2は火縄銃である」となる。文字列Sを持つ内包的に定義された名詞[Sn](n=0, 1, 2,,,)についても、「Sn」、「S(n)」を[種子島2]と同様に定めることにする。

 さて、「種子島」という文字列を持つ名詞には[種子島1]と[種子島2]があるわけであるが、ある人が「種子島」とだけ言ったときに、その発言における「種子島」は[種子島1]と[種子島2]のどちらに定まるのであろうか。まず言えることは、この発言における「種子島」という文字列がどのような名詞であるかの、この発言の文面に見出せる手掛かりは、その名詞が「種子島」という文字列を持つということ以外にないのであるから、この発言における「種子島」という文字列が[種子島1]と[種子島2]のどちらであるかは、発言において明示されることなく定まらなければならない、ということである。したがって、[種子島1]と[種子島2]のどちらに定まるかは、発言者がどのような来歴を持つ者であるかなど、発言の文面の外側の事情で定まらなければならない。例えば、日本地図を見て、九州の南の島の横に「種子島」という文字列が書かれているのを見つけたことがある人が「種子島」と言った場合は、その発言における「種子島」という文字列は、「種子島(1)」に定まりうると考えられる。
 このように、文字列Sを持つ名詞[Sn](n=0, 1, 2,,,)があるとき、文字列Sを含む発言における文字列Sが、[Sn]のいずれかに定まることを、「「S」が(非明示的に) 「S(n)」に成る」、あるいは、「「S」が(非明示的に) 「S(n)」に定まる」と言うことにする。名詞が用いられるということは、その名詞の文字列が口にされ、その名詞に「成る」ということである。

 また、ある人が文章を読むということや、発言を聞くということは、その人が文章や発言を頭の中で読み上げることであると見做すことができることから、読むことや聞くことも発言することであると見做すことができ、読むことや聞くことにおいても、読み上げられた文字列は非明示的になんらかの名詞に「成る」と考えることにする。

1-3 名詞を知るとはどういうことか(+命題を知るとはどういうことか)

 前節で、発言における文字列がどの名詞に成るかは非明示的に定まることを述べたが、ある名詞が持つ文字列と同一の文字列を含む発言において、その文字列は必ずなんらかの名詞に成るとは考えられない。例えば、「種子島」という文字列を見たことも聞いたこともない人が初めて「種子島」という文字列を言ったり書いたりした場合、その発言における「種子島」の文字列は[種子島1]と[種子島2]のいずれにも成らないと考えられる。

 上の例のような人は、ほとんどの場合は、「種子島を知らない」と言ってよい。しかし、この人が種子島を知っている場合が考えられる。それは、この人が種子島に住んでおり、種子島を日々目にしているが、その日々目にしている島が種子島という名前を持つことを知らないという場合である。したがって、「種子島が指すものを知っている」ということと区別された、「種子島という名詞を知っている」ということがあると考える必要がある。

 そこで、上の例の人が「[種子島1]を知らない」という状態にあてはまるように、「[種子島1]を知らない」ことがどういうことであるかを定めることを考えると、「[種子島1]を知らない」とは、「種子島」という文字列を含む発言をしても、その発言における「種子島」という文字列が「種子島(1)」に成りえないことであるとするのが妥当であるとわかる。
 文字列Sを持つ名詞[Sn] (n=0, 1, 2,,,)についても同様に考えて、ある人が「[Sn]を知っている」ということを、その人が「文字列Sを含む発言をすると、その発言における「S」が「S(n)」に成りうる」ことであると定めことにする。

 こうして名詞を知っていることがどういうことであるかが定められたが、上の例の人が「[種子島1]を知っている」ための(必要十分)条件にあてはまらないように、名詞を知っているための条件を考える必要があるので、これを定めることにする。

 文字列Sを持つ名詞[Sn] (n=0, 1, 2,,,)があるとき、ある人pが[Sn]を知っているための条件は、①pが[Sn]の定義に立ち会ったことがあるか、又は、②pが、[Sn]を知っているなんらかの人に、Sが名詞であることを示すなんらかの文面S’を教えられたことがあり、S’をpが読むことにおいてS’が非明示的にそれに定まるところの文における「S」が「S(n)」であるとしか、「外から見て」解釈できないことであるとする。ただし、上における「[Sn]の定義」とは、[Sn]が外延的に定義された名詞である場合は、[Sn]が指すものを指しつつ「これはSである」と名付けること(命名)であるとし、[Sn]が内包的に定義された名詞である場合は、[Sn]に説明を与えることであるとする。また、ある人pがある文面S’を教えることができるのは、その文面S’をpが読むことにおいてS’が非明示的にそれに定まるところの文(命題)を、pが知っている場合に限られることとする。

 名詞を知っているための条件の②がどのようなものであるかを見るために、[種子島1]や[種子島2]を未だ知らない人p2が、[種子島1]も[種子島2]も知っており、種子島1が島であることも種子島2が火縄銃であることも知っている人p1に何を教われば、 [種子島1]や[種子島2]を知っている状態になるかを検討する。ただし、「種子島」の文字列を持つ名詞は、[種子島1]と[種子島2]のみであることとする。

 まず、p1がp2に、「種子島は名詞である」と教えた場合、[種子島1]と[種子島2]のどちらも「種子島」という文字列を持ち、p1がp2にそれらのどちらを教えたのかは定まらず、p2は[種子島1]と[種子島2]のどちらも未だ知らないことになる。次に、p1がp2に、「種子島は島である」と教えた場合、この発言における「種子島」が名詞であることは文面から明らかであり、この発言が真であるという前提のもとでは、この発言における「種子島」は「種子島(1)」であると定まるので、p2は[種子島1]を知っていることになる。同様に、p1がp2に、「種子島は火縄銃である」と教えた場合、p2は[種子島2]を知っていることになる(*)。最後に、p1がp2に「種子島は外延的に定義された名詞である」、あるいは、「種子島は名である」と教えた場合、外延的に定義された名詞や名であって「種子島」の文字列を持つものは[種子島1]しかないので、これらの発言における「種子島」は「種子島(1)」であると確定し、p2は[種子島1]を知っていることになる。同様に、p1がp2に、「種子島は内包的に定義された名詞である」と教えた場合、p2は[種子島2]を知っていることになる。

* 辞書が[種子島1]や[種子島2]を教えるということは、辞書のそれらの項目を読んだ人が②の条件を満たすということであると考えられる。

 名の伝授の具体例をもう少し見る。「○山○子」という文字列を持ち、一人の女のみを指す名の一つを[○山○子1]とおく。これを知っているp1がこれを知らないp2に「○山○子は人である」と教えた場合、p2は[○山○子1]を知っていることにはならない。というのも、○山○子1と同姓同名の人は多数存在しうるため、p1の「○山○子は人である」という発言を「○山○子(1)は人である」とのみ解釈することは、たとえp1が見知っている○山○子という名前を持つ人が○山○子1のみであったとしても、できないからである。○山○子1の長子の名前が○山○彦であり、[○山○彦1]が○山○子1の長子を指す名であるとする。p1とp2がともに[○山○彦1]を知っており、p1が○山○彦1は○山○子1の長子であると知っており、p1がp2に「○山○子は○山○彦の母である」と教えた場合、この発言の文面をp2が読むと「○山○子は○山○彦(1)の母である」と成り、○山○彦1の母は唯一であるので、p2が読んだ文面の「○山○子」は「○山○子(1)」であると外から見て確定し、p2は[○山○子1]を知っていることになる。このように、名の伝授の成就にとって、同名の異なるものの存在は大きな障壁となる。

 以上で、名詞を知っているということがどういうことであるか、また、そのための条件が何であるかが解明された。

 また、2つ上の段落の2つ目の場合においてp1からp2へ命題(知識)が伝達されたことを示すために、次のように定める。ある人p2が文面Sを持つ命題Pを知っているための条件を、①p2が自ら命題Pを確かめたことがあるか、又は、②p2が、命題Pを知っているなんらかの人に文面Sを教わり、その結果、命題Pに含まれる名詞をp2がすべて知り、そのうえで、p2がSを読むことにおいてSが非明示的にそれに定まるところの文が命題Pに一致し、さらにp2が命題Pを信じている(p2が命題Pは真であると思っている)こととする。2つ上の段落の2つ目の場合では、p2がp1から教わった文面をp2が読むと「○山○子(1)は○山○彦(1)の母である」と成るので、p2がこれを信じればp2はこれを知っていることとなる。

第2章 あなたには私をおいて他に神があってはならない~内包的に定義された名~

 本章では、第1章の1-1においてその存在の可能性を示唆した「内包的に定義された名」について述べる。ここでは、内包的に定義された名詞が名になる一般的な条件を検討することはせず、旧約聖書の出エジプト記において、ある内包的に定義された名詞の作り方が示されており、その名詞が名であるとしか考えられないことを明らかにする。なお、聖書からの引用は、日本語のものは新共同訳聖書(*)から、英語のものはKing James Bible (**)からのものとする。

* 共同訳聖書実行委員会 2012 『聖書 新共同訳 旧約聖書続編付き』日本聖書協会
** The Holy Bible, King James Version. Cambridge Edition: 1769; King James Bible Online, 2023. www.kingjamesbibleonline.org.

 出エジプト記において、神は、モーセに対し、イスラエルの人々をエジプトから連れ出すよう命じた。イスラエルの人々が用いるべき神の名は何であるかとモーセに尋ねられた神は、「わたしはある。わたしはあるという者だ」、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」(出エジプト記3章14節)と答えた。また、神は、続けてモーセに対し、次のように言った。

イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。
これこそ、とこしえにわたしの名
これこそ、世々にわたしの呼び名。(同3章15節)

 その後、モーセはイスラエルの人々をエジプトから連れ出してシナイ山に導き、彼らをふもとに立たせて、自分は山頂に降った神のもとへ登って行き、山を下ってイスラエルの民に神の言葉(いわゆる十戒)を告げた。その冒頭は次のようである。

「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」(同20章2-3節)
I am the LORD thy God, which have brought thee out of the land of Egypt, out of the house of bondage. Thou shalt have no other gods before me. (Exodus 20:2-3)

 ここにおいて、神は、「わたしはある」と「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」との名に加えて、自らを指す名として、「他の神があってはならない神」を提示したと考えられる。その理由を以下に述べる。

 神は、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」と言っており、この文から「あなたには」という呼びかけの要素を取り除くと、「わたしをおいて他に神があってはならない(No gods shall exist other than me.)」となる。さらに変形すると、「わたしは、他の神があってはならない神である(I am a god other gods than which shall not exist.)」となる。ここまでで、神が、自らが「他の神があってはならない神(a god other gods than which shall not exist)」であることを示したことが示された。

 「他の神があってはならない神」が名であることを示す前に、仮にこれに該当する神が存在すればそれは唯一であることを示す。「他の神があってはならない神」が複数存在すると仮定すると、そのうちのどの神についても、その神ではない神が存在するために「他の神があってはならない神」ではないことになり、これは矛盾である。したがって、「他の神があってはならない神」が複数存在することはありえず、存在する場合は唯一である。これにより、「他の神があってはならない神」は必ず単数の神であるため、単数であることが明示されていなくとも、「a god other gods than which shall not exist」と同じものであることが示された。

 「他の神があってはならない神」が名であることを示す。「他の神があってはならない神」が全体として一つの名詞であると見做すと、これは、「他の神があってはならない神」と説明される内包的に定義された名詞である。仮に、この名詞が名ではないとすると、「他の神があってはならない神」は名でない内包的に定義された名詞であるので、「xは「他の神があってはならない神」である」のように、性質をあらわす語として用いられることになる。これを満たすxは、xが神であることが確かめられ、さらに、他のすべてのものが神でないことが確かめられることによって見出される。しかし、こうしてxが「他の神があってはならない神」であることが確かめられると、xではない神はそもそも「あってはならない」のであるから、xでないすべてのものが神でないことを確かめた行為は、xが「他の神があってはならない神」であることが確かめる上で不要であったことになり、これは不合理である。よって、「他の神があってはならない神」が名でない名詞であると考えることは不合理であり、「他の神があってはならない神」は内包的に定義された名であるとしか考えられないことが示された。

 以上で、「他の神があってはならない神」が一つの神のみを指す内包的に定義された名であり、神が、自らを指す名としてこれを提示したことが示された。

 最後に、神がなぜ、「他の神があってはならない神」を自らの名として提示したのかを検討することにする。というのも、仮に神が、モーセに、「私は唯一の神である」と言い、モーセがイスラエルの民に、「「わたしはある」は唯一の神を指す名である」、及び、「「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」は唯一の神を指す名である」と言えば、それによってイスラエルの民は、「わたしはある」、及び、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という名を知ることになるので、神が、わざわざ、「他の体があってはならない神」という名を提示する理由はないように見えるからである。
 神は、モーセに十戒を授ける前に、モーセに対して「祭司たちと民とは越境して主のもとに登って来てはならない。主が彼らを撃つことがないためである」(同19章24節)と言った。このことから、イスラエルの民は、神に出会うことができず、「他の神があってはならない神」という名が与えられる前は、「わたしはある」と「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」との神の名を与えられてはいても、それらの名が指しているものが何であるかはしかとはわからず、それらの名が指しているものを、「私が見ているこの神」のように十分に説明することはできなかったとわかる。他方で、「他の神があってはならない神」は、「他の神があってはならない神」の完全な説明である。したがって、「他の神があってはならない神」という神の名が与えられたことで、イスラエルの民は、「わたしはある」と「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」の名が指すものを「他の神があってはならない神」として十分に説明できるようになったと言える。

 ちなみに、イスラエルの民にとって、「唯一の神」は、「わたしはある」と「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」が指すものの十分な説明にならない。なぜなら、あるものが唯一の神であることを確かめるには、そのものが神であり、他のすべてのものが神でないことを確かめる必要があるが、イスラエルの民は神に出会うことができず、イスラエルの民にとっては、それに該当するものを探し出せないような説明は不十分な説明だからである。

第2部 イエスという「名」~内包的に定義された名の用例~

 第1部第2章では、「他の神があってはならない神」が、内包的に定義された名であることが示された。第2部では、新約聖書の4つの福音書(マタイによる福音書・マルコによる福音書・ルカによる福音書・ヨハネによる福音書)におけるイエスが、「「他の神があってはならない神」でもある人」であるという観点から、「イエス」という名について検討する。これをするにあたり、第1章では、イエスからペトロに授けられた「天の国の鍵」(マタイによる福音書16章19節)を受け継ぐものとしての「カトリック教会」が、私が福音書を読むとき、私と必然的にかかわることを明らかにする。ただし、本論文において言及される「カトリック教会」は、現実のカトリック教会ではなく、あくまで、「天の国の鍵」を受け継いだ教会であるところの現実のカトリック教会から着想を得て私が考えた「カトリック教会」であることを注意しておく。
 さらに、第2章では、第1章の議論の問題点を指摘し、カトリック教会に抗議(プロテスト)することを試みる。

 また、第2部は、本論文全体の文脈の中では、第1部第1章で提示した名詞についての枠組みや、第1部第2章で論じた「他の神があってはならない神」という内包的に定義された名が、公共的な言語活動の中ですでに使用されているはずであることを例証することを目的としていることを注意しておく。

第1章 カトリック教会

 本章では、私が福音書を読むと、「概念的なカトリック教会」というものを考えざるをえず、その結果として、私が不合理な状況に陥ること、さらに、カトリック教会は私をその不合理な状況から救い出すことを示す。

1-1 概念的なカトリック教会

 私が言う「イエス」が「イエス(0)」に成るような、「イエス」という文字列を持つ名を[イエス0]とおく。名詞を知っていることの定義から、私は[イエス0]を知っている。福音書における「イエス」についての記述は、イエス0についての正しい記述であると私は思っており(信じており)、福音書に記されたイエス0の発言の内容は真実であると私は思っている(信じている)(*)。

* なぜ、この段落に書かれたことがいきなり前提されるのかと言えば、それは、私は私がクリスチャンだと思っており、私がクリスチャンであることの意味は、この段落に書かれたことであるとしか考えられないので、この段落のように考えないのは不合理だからである。この段落の「私」を「一般のクリスチャン」に置き換えたものを前提に据えて議論するべきであるとも考えられるが、本節では、そのように考えることはせず、むしろ、私の「私はクリスチャンである」という確信から、「一般的なクリスチャン」のようなものが必然的に見出されてしまうことを、以下で論じていく。そのような方針をとるのは、あえて大雑把に言えば、一般的なクリスチャンを、「私が知っているイエスを知っている人」として以外に考えようとすることは、無意味であると思われるからである。

 イエス0についての福音書における記述は、使徒信条の一部において要約されている。使徒信条は次のようである。

天地の創造主、全能の父である神を信じます。父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます。アーメン。

日本カトリック司教協議会 2004 「使徒信条」 https://www.cbcj.catholic.jp/2004/02/18/7456/

 使徒信条のうち、少なくとも、「マリアから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って」の部分が、福音書におけるイエス0についての記述の要約となっている。イエス0がマリアから生まれたことはルカによる福音書2章6-21節に、イエス0がピラトのもとで苦しみを受けたことは同23章23-25節に、イエス0の十字架での死については同23章33-46節に、死から三日目におけるイエス0の復活については同24章1-49節に、イエス0の昇天については同24章50-52節に、それぞれ記されている。イエス0の昇天は過去に起きた出来事であるので、イエス0は、「生まれ、死に、復活し、昇天した人」であるということになる。

 イエス0は、ペトロに対し、自らが「他の神があってはならない神」であることを明かした。その次第はつぎのようである。
 あるとき、イエス0が彼の弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(マタイによる福音書16章15節)と尋ね、続いて、弟子の一人であるペトロとイエス0の間で、次のようなやり取りがあった。

シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれには対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(同16章16-19節)

 ペトロの「あなたはメシア、生ける神の子です」という発言が、イエス0が神であることを明言したものであるか否かは定かでない。しかし、イエス0は、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と言っており、イエス0のこの発言は、自分が「天の父」であることを述べたものであると解釈でき、イエス0がペトロの発言に対して、「あなたは幸いだ」と言っていることから、翻ってペトロの発言も、イエス0が神であることを明言したものであったと解釈できる。イエス0の発言は真実を述べたものであるので、イエス0は「他の神があってはならない神」であり、ペトロはイエス0に「イエスは「他の神があってはならない神」である」と教わり、これを「イエス(0)は「他の神があってはならない神」である」と聞いて(読み上げて)、そのよう信じているので、ペトロは「イエス0は「他の神があってはならない神」である」と知っていることとなる。
 さらに、イエスの昇天までの間に、「イエス0は「他の神があってはならない神」である」と信じ、そのことをイエス0に教わったと明確に書かれているのは、ペトロのみである。このことから、イエスの昇天の時点で、「イエス0が「他の神があってはならない神」である」ことを知っていたのはペトロのみであったと考えられる。

 以上をまとめると、次のようになる。

(1)  イエス0は、「「他の神があってはならない神」でもある人」である。
(2)  イエス0は、すでに昇天した。
(3)  イエス0の昇天の時点で、(1)を知っていたのは、ペトロのみである(*)。

* イエス0が「他の神があってはならない神」であると知っていた者がペトロとイエス0以外にもいたことを示唆する記述は、福音書に散見される。例えば、レギオンは、イエス0が「神の子」(マルコによる福音書5章7節)であると述べた。しかし、「神の子」であるということが、「他の神があってはならない神」であることを含意するかどうかは判然としない。また、イエス0は、「わたしと父とは一つである」(ヨハネによる福音書10章30節)と述べた。これは、イエス0が「他の神があってはならない神」であることを明確に述べたものであるが、この発言を聞いた者のうち誰がこれを信じたかは書かれていない。また、弟子たちが、イエス0について、「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」(同16章30節)と述べたこともある。しかし、「神のもとから来られた」ということが、「他の神があってはならない神」であることを含意するのかどうかは定かでない。

 私は(1)から(3)の命題が真であると思っている。命題(1)をJ0とおく。また、「イエスは、「「他の神があってはならない神」でもある人」である」という文(文字列)を、Jとおく。

 私と同じように、多くの人が聖書を読んで、「イエスは、「「他の神があってはならない神」でもある人」である」(J)と思い、そのように言う。しかし、そのように思ったり言ったりする人のその思いや発言における「イエス」が「イエス(0)」に成らなければ、その人はJ0と思ったり言ったりしていることにはならず、その人は、イエス0でない「イエス」の名を持つ人が「「他の神があってはならない神」でもある人」であると思ったり言ったりしていることになる。そして、私でない人が言う「イエス」が「イエス(0)」に成るとは限らないのである。

 そこで、以下では、私と同じようにJ0と思っている人が誰であるかを考えるために、そもそも、「イエス」と言うとその発言における「イエス」が「イエス(0)」に成りうる人、すなわち、[イエス0]を知っている人が誰であるかを検討することにする。ただし、その前に、「「他の神があってはならない神」でもある人」が唯一であることを確認する。

 「「他の神があってはならない神」でもある人」が複数存在すると仮定すると、「「他の神があってはならない神」でもある人」は、「人でもある「他の神があってはならない神」」であり、「他の神があってはならない神」は唯一であるため、異なる複数の人が同一であることになるが、これは不可能である。よって、「「他の神があってはならない神」でもある人」は唯一である。

 [イエス0]を知っている人全体の集合について考える。イエス0の昇天の時点で[イエス0]を知っている人全体の集合からイエス0を除いた集合をAとおく。ある人pが[イエス0]を知っているための条件は、①pが[イエス0]の定義に立ち会ったことがあるか、又は、②pが、[イエス0]を知っているなんらかの人に、イエスが名詞であることを示すなんらかの文面Sを教えられたことがあり、Sをpが読むことにおいてSが非明示的にそれに定まるところの文における「イエス」が「イエス(0)」であるとしか、「外から見て」解釈できないことである。イエス0の名が何であるかを決めることができるのはイエス0のみであるので、イエスの昇天後に初めて①の条件を満たす人は存在しない。よって、[イエス0]を知っている人全体の集合からイエス0を除いた集合に属する人は、Aに属する人と、Aに属する人に、イエス0について教わることによって、②の条件を満たすことになった人であるとわかる。

 まず、Aに属する人のうち、ペトロ以外の人が、イエス0が「「他の神があってはならない神」でもある人」であると知る前に、他の人に対し、イエス0について教えることを考える。これらの人は、イエス0が「「他の神があってはならない神」でもある人」であるとは知らないので、イエス0について他の人に教えるとき、「イエスは、「「他の神があってはならない神」でもある人」である」と教えることはできず、「イエスは、「生まれ、死に、復活し、昇天した人」である」と教えることになる。しかし、「イエス」という名を持つ、「生まれ、死に、復活し、昇天した人」はイエス0以外にも存在する可能性があり、したがって、「イエスは、「生まれ、死に、復活し、昇天した人」である」と教わった人が、②の条件を満たして[イエス0]を知ることとなったと見做すことはできない(*)。

* ここで、私は、議論を簡単にするため、Aに属する人のうちペトロ以外の人であって、マリアを知っており、イエス0がマリアの長子であると知っている人が、マリアを知っている人に対し、「イエスはマリアの「初めての子」(ルカによる福音書2章7節)である」と教えるケースを、とりあえず無視している。このようにしてのみ[イエス0]を知った人は、[イエス0]を、マリアを知っている人にしか教えられないからである。

 次に、ペトロが他の人pにイエス0について教えることを考える。ペトロはpに対し、「イエスは、「「他の神があってはならない神」でもある人」である」(J)と教えることになるが、このとき、pが[イエス0]という名を知っていると言えるかどうかを検討する。「イエス」という文字列を持ち、人を指す名は複数存在しうるので、これらを[イエスn](n=0, 1, 2,,,)とおく。ここで、「「他の神があってはならない神」でもある人」は唯一であるため、「「他の神があってはならない神」でもある人」を指し、同じ文字列を持つ名は同一であるから、[イエスn]のうち、「「他の神があってはならない神」でもある人」を指すのは[イエス0]のみである。ペトロの上の発言における「イエス」は「イエス(n)」のいずれかであるが、その「イエス(n)」は「「他の神があってはならない神」でもある人」でなければならならず、[イエスn]のうち、「「他の神があってはならない神」でもある人」を指すのは[イエス0]のみであるから、ペトロの発言における「イエス」は「イエス(0)」であるとしか解釈できない。よって、pは[イエス0]を知っていると言える。
 さらに、pは、「イエス0は、「「他の神があってはならない神」でもある人」である」(J0)という命題を知っているペトロからそのように教わったので、pがJ0と思った場合、pはJ0を知っていることになる。

 ペトロからpへの[イエス0]とJ0の伝達についての議論は、ペトロを、J0を知っている任意の人に置き換えても成り立つので、[イエス0]を知っている人全体の集合からイエス0を除いた集合、及び、J0を知っている人全体の集合からイエス0を除いた集合は、次のようになる。

(1)  CC(0)をペトロのみからなる集合とする。
(2)  CC(n+1)(n=0, 1, 2,,,)を、CC(n)に属する人からJと教わり、J0と思った人全体の集合とする。
(3)  CC(inf)をCC(n)(n=0, 1, 2,,,)のすべての和集合とする。
(4)  CC(inf)は、J0を知っている人全体の集合からイエス0を除いた集合である。
(5)  イエス0の昇天の時点で[イエス0]を知っている人全体の集合からイエス0を除いた集合(A)と、CC(inf)に属する人からJと教わった人全体の集合の和集合が、[イエス0]を知っている人全体の集合からイエス0を除いた集合である。

 CC(inf)を「概念的なカトリック教会」と呼ぶことにする。私は聖書を読んでJ0と思っているが、私がJ0と思うためには、私は[イエス0]を知っていなければならず、私はAに属してはいないので、そのためには、私は概念的なカトリック教会に属する人にJを教わったことがあるのでなければならないことになる。そして、私が概念的なカトリック教会に属する人にJを教わったことを確かめるためには、私は、その人がCC(n)のいずれかに属していることを確かめねばならず、そのことを確かめるためには、その人にJを教えた人がCC(n-1)に属していることを確かめねばならず、最終的には、そうして遡って行きつく人物がペトロであることを確かめなければならない。
 私は、「イエス0は、「「他の神があってはならない神」でもある人」である」(J0)と思っているにもかかわらず、そのことを確かめるためには、私が概念的なカトリック教会に属している人に「イエスは、「「他の神があってはならない神」でもある人」である」(J)と教わったこと、ひいては、どの人がペトロであるかを確かめなければならないという不合理な状況に追い込まれたことになる(*)。

* 本節の最初の注で述べたとおり、「概念的なカトリック教会」が「一般的なクリスチャン全体の集合」のようなものとして見出され、当の私がそれに属していないかもしれないということが明らかになった。そして、「一般的なクリスチャン」なるものがどのようなものであるかを、私が勝手に定めてよいはずがないものの、「私は、私が一般的なクリスチャンであるか直ちにはわからない」ということは、「一般的なクリスチャンである」という述語が満たすべき最低限の条件であり、私は私が概念的なカトリック教会に属していないかもしれないと考えざるをえないのであるから、「概念的なカトリック教会」は、「一般的なクリスチャン全体の集合」であるために必要な最低限の条件を満たしている。なお、概念的なカトリック教会が「イエス」という文字列から生じたのと同様に、「物理学」や「哲学」などの他の文字列からも、「一般的な物理学者」や「一般的な哲学者」といった、概念的なカトリック教会と似たようなものが容易に生じうると考えられるが、概念的なカトリック教会の特徴は、上の(1)から(3)のように、それに属する人の範囲が厳密に定まるように生じるということである。1-2で述べることを先取りすると、カトリック教会はそのことに自覚的であるからこそ自らが「天の国の鍵」を継いでいると主張しているはずであり、したがって、「範囲が厳密に定まる」上で重要な役割を果たしている「他の神があってはならない神」という名詞は、すでに公共的な言語活動の中で役割を果たしているはずである。

 ちなみに、仮に、聖書において、イエス0が「他の神があってはならない神」であると示されていなかったならば、概念的なカトリック教会は生じない。なぜなら、この場合、 [イエス0]は、「生まれ、死に、復活し、昇天した人」を指す名であることになるが、「イエス」の文字列を持ち、「生まれ、死に、復活し、昇天した人」を指す名は複数ある可能性があり、ペトロが、「イエスは、生まれ、死に、復活し、昇天した人である」と言っても、その発言はイエス0についての発言であるとは確かには定まらないからである。
 また、イエスがペトロに「天の国の鍵」を授けた場面であるマタイによる福音書16章16-19節において、イエス0が「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」や「わたしはある」であることが示されていると解釈しても、概念的なカトリック教会は上のような仕方では生じない。この場合、ペトロは、他の人に対し、「イエスは、「「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」でもある人」である」、あるいは、「イエスは、「「わたしはある」でもある人」である」と教えることになるが、ペトロにそのように教わることによって[イエス0]を知ることになる人は、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」や「わたしはある」という名をあらかじめ知っている人に限られるからである。
 また、同じ場面において、イエス0が「唯一の神」であることがいきなり示されていると考えることはできない。なぜなら、「唯一の神」であることはなんらかの神が持ちうる性質であって、イエス0が神であることが示されたとして、その神が唯一の神であるならばイエス0は唯一の神であることになるが、上の場面では、イエスは「天の父」であるとしか示されていないからである。

1-2 カトリック教会の根本教義

 カトリック教会の根本教義は、「あなたが探し求めている概念的なカトリック教会は、我々、カトリック教会である」である。私がカトリック教会にそのように教わり、そのように信じるなら、私は、カトリック教会にあらためて「イエスは、「他の神があってはならない神」でもある人である」と教わることにより、「イエス0は、「他の神があってはならない神」でもある人である」と、思うのみならず知ることとなり、私は、私が言う「イエス」が「イエス(0)」に成ることを確かめられないという不合理な状況から救い出されることとなる。
 カトリック教会の教義は、非常にもっともらしいものでもある。なぜなら、私が、将来成立することになるだろう福音書を読むことによって、概念的なカトリック教会に所属している人に「イエスは、「他の神があってはならない神」でもある人である」と自分が教わったか否かについて思い悩むことになることの必然性とその思い悩みから私が救済されることの必要性を、イエスの昇天の時点において、ペトロがよく認識していたとしてもおかしくはないからである(*)。

* にもかかわらず、私は、カトリック教会が概念的なカトリック教会ではないのではないかとどうしても疑ってしまう。そのような疑いを抱いている私に対して、「「カトリック教会は概念的なカトリック教会ではないのではないか」と疑ってしまったら、あなたは、あなたが言う「イエス」が「イエス(0)」に成らないのではないかという思い悩みに再び陥ってしまいます。思い悩むことはありません。我々、カトリック教会は疑いようもなく概念的なカトリック教会です」と諭し、私が、カトリック教会こそが概念的なカトリック教会であると再び信じるようしむける秘蹟が、「悔い改めの秘跡(回心の秘跡)」であると思われる。ここで、私は悔い改めの秘跡をおとしめているのではない。カトリック教会は、私を不合理な状況から救うための仕組みを大変よく整備している、ということを述べているのである。

第2章 カトリック教会に抗議(プロテスト)することを試みる

 本章では、前章における概念的なカトリック教会の成立に関する議論の内在的な問題点及び外在的な問題点を指摘し、私が、「イエスは、生まれ、死に、復活し、昇天した、「他の神があってはならない神」でもある人である」と知るに至るまでの、カトリック教会による救済とは異なる道の可能性を模索する。このような試みを、現実のカトリック教会に抗議したプロテスタントにならって、カトリック教会への抗議(プロテスト)と呼ぶことにする。

2-1 概念的なカトリック教会の内在的な問題点

 1-1では、私が、福音書はイエス0についての正しい記述であると思いつつ福音書を読むことに伴って、概念的なカトリック教会が成立することが論じられたが、その中で、「イエス0の名が何であるかを決めることができるのはイエス0のみである」ことが大きな役割を果たしていた。これにより、イエス0の昇天後において、[イエス0]の定義に立ち会うことができる人は存在しないことが導かれ、[イエス0]の昇天後において初めて[イエス0]を知っている条件を満たすためには、CC(inf)に属する人に「イエスは、「「他の神があってはならない神」でもある人」である」(J)と教わる必要があることが導かれた。しかし、「イエス0の名が何であるかを決めることができるのはイエス0のみである」というのは誤りである。
 「他の神があってはならない神」でない、一般の人pについて、「pの名が何であるかを決めることができるのはpのみである」というのは、正しい。なぜなら、pは精神であって、pを把握できるのはpのみであるとされるので、pを前にしてpに名前をつけることができるのはpのみだからである。そして、仮に、これがイエス0にもあてはまるのであれば、「イエス0の名が何であるかを決めることができるのはイエス0のみである」というのは、正しいということになる。
 しかし、イエス0は、一般の人と違って、「「他の神があってはならない神」でもある人」であり、「「他の神があってはならない神」でもある人」は、内包的に定義された名である。なぜなら、仮に、「「他の神があってはならない神」でもある人」が名でないとすると、「「他の神があってはならない神」でもある人」は、「xは「「他の神があってはならない神」でもある人」である」のように性質をあらわす語として用いられることになり、これを満たすxは、「xは「他の神があってはならない神」である」を満たす必要があるが、第1部第2章で見たように、これを満たすxを探すことは不合理であることから、「xは「「他の神があってはならない神」でもある人」である」を満たすxを探すのも不合理になるからである。したがって、どんな人も、「イエス」という名詞に、「「他の神があってはならない神」でもある人」という説明を与えることによって、「イエス」の文字列を持つ内包的に定義された名詞の定義に立ち会うことができるが、このとき定義された名詞はイエス0を指す内包的に定義された名になってしまい、その人は[イエス0]を知っていることになってしまうのである。

 以上で見たように、「イエス0の名が何であるかを決めることができるのはイエス0のみである」というのは誤りである。そして、誰でも、「イエス」に、「「他の神があってはならない神」でもある人」という説明を与えることによって、「イエス」の文字列を持つ名詞を定義すれば、その人は[イエス0]を知っていることになり、「イエス0は、「「他の神があってはならない神」でもある人」である」(J0)を知っていることになってしまう。したがって、概念的なカトリック教会に属する人のみがJ0を知っていることにはならず、その意味で概念的なカトリック教会は成立しないと言える。

 ちなみに、モーセの十戒の一つである、

あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。(出エジプト記20章7節)
Thou shalt not take the name of the LORD thy God in vain (Exodus 20:7)

という戒めによって、「イエス」に「「他の神があってはならない神」でもある人」という説明を与えることは禁じられており、禁じられた行いをあえてすることは無効であると、私が考えるなら、概念的なカトリック教会は問題なく成立する。

2-2 概念的なカトリック教会の外在的な問題点

 私は、「イエス0は、「「他の神があってはならない神」でもある人」である」と思っているのみならず、「イエス0は、「生まれ、死に、復活し、昇天した人」である」とも思っているので、私は、「イエス0は、「生まれ、死に、復活し、昇天した、「他の神があってはならない神」でもある人」である」と思っていることになるが、この命題は矛盾を含んでいる。というのも、イエス0は復活までの三日の間は死んでおり、その間は[イエス0]により指されるものが存在していなかったことになるが、「他の神があってはならない神」は「わたしはある」であるため、存在しないことはありえないからである。
 1-1では、私が福音書に記されたイエス0の発言の内容は真実であると思うことを前提として、概念的なカトリック教会の成立が論じられたが、そのような前提のもとで私が福音書を読むと、上で示されたように、矛盾を含む命題を信じることになってしまうのであるから、そもそも、福音書に記されたイエス0の発言の内容は真実であると思って福音書を読むということは、私がすることができることではないはずなのである。

2-3 聖書のみ・信仰のみ・恵みのみ

 概念的なカトリック教会の内在的、及び、外在的な問題点を踏まえて、カトリック教会とは異なる立場から、福音書を読むことを試みる。

 あらためて、私が言う「イエス」が「イエス(0)」に成るような、「イエス」という文字列を持つ名を[イエス0]とおく。名詞を知っていることの定義から、私は[イエス0]を知っている。福音書における「イエス」についての記述は、イエス0についての正しい記述であると、私は思っている(信じている)。福音書に記されたイエス0の発言は、イエスがペトロに「天の国の鍵」を授けた場面であるマタイによる福音書16章16-19節においてなされたものを除き(*)、真実を述べたものであると私は思っている(信じている)。このとき、私は、「イエス0は、「生まれ、死に、復活し、昇天した人」である」と思っている(信じている)ことになり、私は、「[イエス0]は、「生まれ、死に、復活し、昇天した(一人の)人」(のみ)を指す名である」と思っている(信じている)ことになる。

* イエス0による、「わたしと父とは一つである」(ヨハネによる福音書10章30節)という発言も、イエス0が「他の神があってはならない神」であることを述べたものであるので、除く必要があるが、ここでは、簡潔な記述を優先し、省略してある。

 上の場面において、イエス0は、自身が、「他の神があってはならない神」であると主張している。この主張を言い換えると、「[イエス0]は、「「他の神があってはならない神」でもある人」を指す名である」となり、このことと、「[イエス0]は、「生まれ、死に、復活し、昇天した(一人の)人」(のみ)を指す名である」ことが両立しないことが、2-2で示されたのであった。

 そこで、私が、「[イエス0]は、「「他の神があってはならない神」でもある人」を指す名である」と知ることがありうるかどうかを検討する。まず、 [イエス0]が「「他の神があってはならない神」でもある人」を指す名であることを私が自ら確認することを考えるが、私は、[イエス0]が「生まれ、死に、復活し、昇天した(一人の)人」(のみ)を指す名であるとすでに思っているので、これは不可能である。次に、他の人に「[イエス0]は、「「他の神があってはならない神」でもある人」を指す名である」と教えてもらうことを考えるが、1-1の最後から3つ目の、「ちなみに」で始まる段落で確認したように、私にイエス0について教えることができる人は存在しないので、これも不可能である。最後に、「他の神があってはならない神」に、[イエス0]が、「「他の神があってはならない神」でもある人」を指す名であることを教えてもらうことを考える。仮に、[イエス0]が、「「他の神があってはならない神」でもある人」を指す名であるなら、「他の神があってはならない神」は、私にそのように教えることができるはずである。なぜなら、「神にできないことは何一つない」(ルカによる福音書1章37節)からである。
 上の考察から、私が、「[イエス0]は、「「他の神があってはならない神」でもある人」を指す名である」と知ることは、「他の神があってはならない神」にそのように教わることによってのみ起こりうることがわかったが、私が、「イエス」の文字列を含むなんらかの発言において、その発言における「イエス」が「イエス(0)」に成っていることを認識しうるのは、その発言がその文面の決定も含めて私によってなされるか、その発言が、私が聖書を読み上げているときの私の発言であるかのどちらかの場合のみである。よって、私が、その文面を私が決めた私の発言を聞くことから「[イエス0]は、「「他の神があってはならない神」でもある人」を指す名である」という、「[イエス0]は、「生まれ、死に、復活し、昇天した(一人の)人」(のみ)を指す名である」という私の信念に矛盾することを教わることはありえないとすると、私が「他の神があってはならない神」に「[イエス0]は、「「他の神があってはならない神」でもある人」を指す名である」と教わるという出来事が起こりうるとするなら、それは、私が、私が聖書を読み上げているときの私の発言を聞くという出来事においてのみ起こりうるとわかる。

 以上から、私が、「[イエス0]は、「生まれ、死に、復活し、昇天した(一人の)人」(のみ)を指す名である」と信じると同時に、「[イエス0]は、「「他の神があってはならない神」でもある人」を指す名である」とも信じるということは、私が聖書を読むという出来事において、私が、「他の神があってはならない神」に「[イエス0]は、「「他の神があってはならない神」でもある人」を指す名である」と教わることによってしか起こりえないことが示された。したがって、「[イエス0]は、「生まれ、死に、復活し、昇天した、「他の神があってはならない神」でもある人」を指す名である」と私が信じるなら、すでに、私は、「他の神があってはならない神」から、聖書を読むことを通じてそのように教わったことがあり、そう信じて、そのように知っているのでしかありえないのであり、そのとき、[イエス0]は、単に私が言うところの「イエス」という名であるのではなく、「他の神があってはならない神」が言うところの「イエス」という名であるのである。

 ちなみに、私が、「イエスは、生まれ、死に、復活し、昇天した、「他の神があってはならない神」でもある人」である」と上のような仕方で知るに至る過程の特徴を、私が聖書を読んでいるだけであるという側面からとらえれば「聖書のみ」となり、私が他の人に「イエスは、「生まれ、死に、復活し、昇天した、「他の神があってはならない神」でもある人」である」と教わることによってそのように知ったのではないという側面からとらえれば「信仰のみ」となり、「他の神があってはならない神」から教わることによってそのように知ることになるという側面からとらえれば「恵みのみ」となる。

第3部 今

 この部では、「今」という語が何であるかを考える。これをするにあたり、第1章では、「今」を、内包的に定義された名として2つの仕方で定義し、今によって、私と時間との間にどのような関係がもたらされるかを解明する。第2章では、今に拘束された任意の者が、そのことによって、自らが出会うモノを名指す一般的な方法を得ることを見る。
 本論文を通じて、時間は、西暦であらわされ、西暦元年1月1日午前0時0分が0に対応するように実数全体の集合と同一視されることとし、時点は、時間に属する元であり、任意の時点はある一つの実数と同一視されることとする。

第1章 内包的に定義された名としての今

 「今」という語は、「「今」という語が発された時点」を意味するとされる。仮にそうであるとすると、私が「今は時点tである」と言うとき、この発言は、「「今」という語が発された時点は時点tである」を意味することになる。よって、私による「今は時点tである」という発言は、「私が「今」という語を発している時点は時点tである」に置き換えることができることになるが、この発言はさらに、「私がこのように話している時点は時点tである」に置き換えることができ、そもそも「今」という語は不要であることになる。よって、「今」という語が、「「今」という語が発された時点」を意味すると考えるのは、奇妙である。

 ここまでの議論は、第0部の「私」という語についての議論に似ているので、「私」の語が第1の機能を持つのと同じように、私によって発された「今」の語は、「「今」という語が発された時点」のみを意味するのではなく、「「今」という語の第1の機能」によって、何らかの時点をいきなり指しうるとも考えられる。しかし、「私」の語と「今」の語では、事情は大きく異なっている。というのも、「私」の語については、私が言う「私」の語が指すものが私であることは私にはなんの調査の必要もなく明らかである一方で、他者(第0部最後から2つ目の段落参照)が言う「私」の語が指示するものは「私」の語の第2の機能によって指示される私でない精神であるがゆえにどんな調査によっても私には明らかにならない、という、私の目に映る限りでの指示対象の明瞭性の発語に依存したムラがあるが、「今」の語については、私が言う「今」がどの時点であるかを私はスマホ(スマートフォン)の日付と時刻(日付は西暦で、時刻は一定の角速度で動く秒針を持つアナログ時計として表示されることとする)を見て確認することができるし、記憶の中の私が言う「今」がどの時点であるかを私は記憶の中のスマホの日付と時刻を見て確認することができるので、私の目に映る限りでの指示対象の明瞭性の発語に依存したムラは、私による発語と記憶の中の私による発語に範囲を絞れば、ないと言えるからである。よって、「今」という語の機能が、「私」という語のように、発語に依存してがらりと変わると考えるべきではなく、「今」という語の意味は、発語に均一に依存して変化すると考えるべきである。

 そこで、「今」という語の意味が、発語に依存してどのように変わるかを考える。「今」という語の発語は、何らかの者pが「今」と言うという出来事であり、それは出来事であるから、何らかの時点tにおいて起こる。そのため、「今」という語の発語は、「pが時点tにおいて「今」と言う」という形式を持った出来事になる。したがって、「今」という語の意味が「今」という語の発語に依存するということは、「今」という語の意味がtとpのどちらか、またはそれらの両方に依存するということである。ところで、tは、「今」という語が言われた時点であるため、仮に「今」という語の意味がtに依存すると考えると、「今」はtであると考えるより他ない。なぜなら、「今」がtでない時点t’であるということは、t’が、「pが時点tにおいて「今」と言う」という出来事とはなんの関係もない時点であるために、不可解だからである。しかし、「今」がtであると定めることは、「今」という語を、「「今」という語が言われた時点」を意味する語と定めることと同じであり、上で見たように、このような定義は、「今」という語を不要にするため、不合理なのであった。よって、「今」という語の意味は、tに依存するとは考えることができず、pのみに依存すると考えるのが妥当である。

1-2 「今」と言う者が出会いうる他の時点があってはならない「今」と言う者が出会いうる時点

 前節で示されたように、「今」という語の意味が、「今」と言う者に依存して定まるとして、そのように意味が定まった今がどの時点であるかは、「今」と言う者がスマホの日付と時刻を見ることによって確認できるのでなければならない。よって、「今」と言う者は、スマホの日付と時刻が「今」にあたる時点を表示しているという出来事に出会う見込みが十分に高いのでなければならない。

 ここで、ある時点というものを、その時点において起きる出来事全体をあわせたものと考え、ある出来事がある時点において起こるということは、その出来事がその時点の一部であることであると考える。一般に、スマホが正常に機能している見込みは十分に高いとされ、スマホの日付と時刻がある時点を表示するという出来事は、そのスマホが正常に機能していれば、表示された時点の一部であるとされる。よって、「今」と言う者が、スマホの日付と時刻が「今」にあたる時点を表示しているという出来事に出会う見込みが十分に高くなるためには、「今」と言う者が出会う出来事のすべてが、「今」にあたる時点の一部でなければならず、言い換えると、「今」と言う者が、「今」にあたる時点にのみ出会い、他の時点に出会うことがないのでなければならない。

 以上を踏まえて、「今」という語の意味を、「今」と言う者に依存して変化し、また、「今」と言う者が今にあたる時点にのみ出会うことになるように定めることを試みる。

 まず、「今」という語を、「「今」と言う者が出会いうる時点」と仮に定める。このように定めると、「今」にあたる時点は複数存在する可能性があり、したがって、「今」と言う者が、スマホの日付と時刻を一瞥して、その目に入った一つの時点だけが今であると考えるのは、不合理であることになる。
 次に、「今」という語の意味を、「「今」と言う者が出会いうる唯一の時点」と仮に定める。このように定めると、「今」と言う者が、ある時点が今にあたる時点であることを確かめるためには、自らがその時点以外の時点に出会いえないことを確かめる必要があるが、このことは、「今」と言う者が、そのような確認をすることなくスマホの日付と時刻を一瞥するだけで「今」がどの時点にあたるか確認していることと整合しない。
 最後に、「今」という語の意味を、「「今」と言う者が出会いうる他の時点があってはならない「今」と言う者が出会いうる時点」と定める。第1部第2章で「他の神があってはならない神」が一つの神のみを指す内包的に定義された名であることを示したのと同様に考えると、「「今」と言う者が出会いうる他の時点があってはならない「今」と言う者が出会いうる時点」が、一つの時点のみを指す名であることが示される。このとき、「今」と言う者が、今が存在すると考えるとすると、その者が出会う時点は、その者が出会いうる他の時点があってはならないのだから、かならず今であり、その者が見る、スマホの日付と時刻がなんらかの時点を表示するという出来事はかならず今の一部であり、したがって、その者がスマホを一瞥すれば、そのスマホの日付と時刻は今を表示している見込みが十分に高いということになる。

 こうして、「今」という語の意味を、「今」と言う者に依存して変化し、「今」と言う者が今にあたる時点にのみ出会うことになるように定めるには、「今」という語の意味を、「「今」と言う者が出会いうる他の時点があってはならない「今」と言う者が出会いうる時点」と定めるのが適切であることが示された。以降、本節では、「今」は、「「今」と言う者が出会いうる他の時点があってはならない「今」と言う者が出会いうる時点」を意味することとする。また、「今」と言う者については、その者は今にのみ出会うので、その者が今に出会うことと、その者が今に出会っていることを区別しないことにする。

 本章の冒頭で、「「今」という語は、「「今」という語が言われた時点」を意味するとされる」と述べたが、「今」という語が他者や私の記憶の中の私によって言われる場合、今が指すものは、私が見る限りでは、「「今」という語が言われた時点」に一致すると見做すことができる。というのも、そのような場合において、私は、「「今」と言う者」を想定することしかできないので、「今」と言う者が「今」という語が言われた時点にのみ出会うと想定すれば、今は、「今」という語が言われた時点になるからである。このように、「今」という語が他者や私の記憶の中の私によって言われる場合、その発言における「今」と言う者を、私は想定することができるのみであるから、「今」と言う者が時間とどのような関係にあるか、また、「今」と言う者が時間をどのようなものだと考えているかは、私の探求の対象にならない。逆に考えて、我々が、「今」という語を、「「今」という語が言われた時点」を意味するものとして扱っている理由を、我々が、「今」と言う者を、「今」という語が言われた時点にのみ出会う者であると想定していることに求めることができ、その場合、「今」と言う者が時間とどのような関係にあるか、また、「今」という者が時間をどのようなものだと考えているかは、「我々の」探求の対象にならない、と言える。
他方、私が「今」と言う場合において、私は、「今」と言う者が私であると知っており、私は私をいかようにも想定することができるわけではない。よって、私が「今」と言う場合においては、私が、「今」は「「今」という語が言われた時点」に一致すると見做すことができるかどうかは自明ではないし、私と時間がどのような関係にあるかを、私は、私の探求の対象とすることができる。

 そこで、以下では、「今」と言う私の性質と、私が時点に出会うという出来事の性質について仮定を置くことで、私が時間とどのような関係にあるかを考察することにする。

 まず、私の性質について考える。私が「今」と言うとき、私はすべての時点の中で今にあたる時点にのみ出会うことになるが、そのような事態が生ずるのは、私が幅のある時間に出会い続けるということはなく、私はある一つの時点にのみ出会うからであると考えるのは自然である。なぜなら、その場合、「私が出会う時点」は唯一に定まり、その時点が今となるからである。
そこで、「私はある一つの時点にのみ出会う」という仮定のもとで、私と時間の関係について考察する。この仮定を、仮定①とおく。
 「私が出会う時点」は唯一に定まるので、私が「今」と言うと、「私が出会う時点」は今に一致する。私はスマホの日付と時刻を見て、それが時点tを表示していることを確認し、「今は時点tである」と思うが、今は私が出会う時点に一致するので、私は、「私は時点tに出会っている」とも思うことになる。しかし、私が見ているスマホは正常に機能していないかもしれず、今は時点tとは異なる時点uであるかもしれないので、私は、「今は時点uであるかもしれない」とも思うことになり、「私は時点uに出会っているかもしれない」とも思うことになる。今は唯一であるから、時点tと時点uの少なくとも一方は今ではなく、私が、「私は時点tに出会っているかもしれないし、時点uに出会っているかもしれない」と考えていることから、私は、「私は今でない時点に出会っているかもしれない」と思っていることになる。ところが、今は、「私が出会いうる他の時点があってはならない私が出会いうる時点」であり、私が「私は、今でない時点に出会っているかもしれない」と思うことは、あってはならない。よって、私が仮定①のように仮定することがあってはならないか、あるいは、私がスマホは正常に機能していないかもしれないと考えることがあってはならないかのどちらかであるが、スマホが正常に機能していないかもしれないと考えないということを私は受け入れられないので、私は、仮定①のように仮定してはならないとわかる。

 以上のように、仮定①のもとで私がスマホの日付と時刻を見て今がどの時点であるかを調べるという状況について考えることから、私が「今」と言うとき、私が仮定①のように仮定してはならないこと、すなわち、私が「私はある一つの時点にのみ出会う」と考えることがあってはならないことが示された。

 ちなみに、仮定①の「私」を、他者または私の記憶の中の私であるような者pに置き換え、私がpに成り替わって上と同じ議論をすることができると想定すれば、当然ながら、pが「私はある一つの時点にのみ出会うかもしれない」と考えることがあってはならないということが示される。しかし、私はpではないので、私は、pがある一つの時点にのみ出会うと想定することができる。

 次に、私が今に出会うという出来事の性質について考える。私がある一つの時点に出会うということはないので、このことから、私はある幅のある時間に出会い続けると考えるのは自然である。ここで、私がある時点に出会うという出来事はその時点の部分である、言い換えると、私がある時点に出会うという出来事はその時点のみにおいて起こる、と考える。このように考えると、ある時間の区間に渡って、私が時点に出会い続ければ、その区間に属するすべての時点に、私はその時点の部分をなす出来事の登場人物として登場することになり、このことが、私がその区間に渡って生き続けることであると見做すことができる。
 そこで、「私がある時点に出会うという出来事はその時点の部分である(私がある時点に出会うという出来事は、その時点においてのみ起こる)」という仮定のもとで、私と時間の関係について考察する。この仮定を、仮定②とおく。このとき、私がある時点に出会うという出来事が起こる時点は唯一に定まり、その時点に一致する。よって、私がある時点に出会うという出来事は、私がその出来事が起きている時点に出会うという出来事であることになる。また、この事態を簡略に表現するために、「私がなんらかの時点に出会う」という出来事eをその出来事が起こる時点tに移す写像T:e→tを導入すると、私がなんらかの時点に出会うという出来事は、その出来事をeとおいて、私がT(e)に出会うという出来事であることになる。
 私が「今」と言うと、私は今に出会っており、私が今に出会っているという出来事が起こる時点は今である。私はスマホの日付と時刻を見て、それが時点tを表示していることを確認し、「今は時点tである」と思う。さらに、私は今にあたる時点に出会っており、私が今にあたる時点に出会っているという出来事が起っている時点は今であり、私は、「今は時点tである」と思っているため、私は、「私は時点tに出会っている」とも思っていることになる。このことは、私が今にあたる時点に出会っているという出来事をeとおくと、私はT(e)に出会っており、私が「T(e)=t」であると思っているため、私は、「私はtに出会っている」と思っていることになるということである。しかし、私が見ているスマホは正常に機能していないかもしれず、今は時点tとは異なる時点uであるかもしれないので、私は、「今は時点uであるかもしれない」とも思うことになり、今が時点tであると考えたときと同様に考えれば、私は、「私は時点uに出会っているかもしれない」と思っていることになる。今は唯一であるから、時点tと時点uの少なくとも一方は今ではなく、私が、「私は時点tに出会っているかもしれないし、時点uに出会っているかもしれない」と考えていることから、私は、「私は今でない時点に出会っているかもしれない」と思うことになるが、今は、「私が出会いうる他の時点があってはならない私が出会いうる時点」であるので、私が「私は今でない時点に出会っているかもしれない」と思うことはあってはならない。よって、スマホが正常に機能していないかもしれないと考えないということは受け入れられないので、私は、仮定②のように仮定してはならないとわかった。

 以上のように、仮定②のもとで私がスマホの日付と時刻を見て今がどの時点であるかを調べるという状況について考えることから、私が「今」と言うとき、私が仮定②のように仮定してはならないこと、すなわち、私が「私がある時点に出会うという出来事はその時点の部分である」と考えることがあってはならないことが示された。

 ちなみに、仮定①について行ったのと同様に、仮定②の「私」を、他者または私の記憶の中の私であるような者pに置き換え、私がpに成り替わって上と同じ議論をすることができると想定すれば、pが「私がある時点に出会うという出来事は、その時点においてのみ起こる」と考えることがあってはならないことが示される。しかし、私はpではないので、私は、pがある時点に出会うという出来事はその時点の部分であると想定することができる。

 仮定①と仮定②を検討することで、私が「今」と言うとき、私と時間との以下の関係が成り立つことが示された。

(1)  私はある一つの時点にのみ出会うと、私が考えることがあってはならない。
(2)  私がある時点に出会うという出来事はその時点の部分であると、私が考えることがあってはならない。

 私が「今」と言うとき、(1)と(2)が成立するが、これらをあわせてあえて大雑把に解釈すれば、私は時間の外側から今に出会う、と解釈できる。このことは、「時が流れて見える」ことや、「モノが動いて見える」ことが可能となるための条件であるように思われる。

1-3 出会われうる他の時点があってはならない出会われうる時点

 「今」という語を、1-2で定義されたものと考えると、「今」と言う者が出会いうる今以外の時点はあってはならないのであった。そこで、「今」を、「今」と言う者に課される上のような掟をあらゆる者に課すようなものとして、あらためて検討する。

 「今」を、「出会われうる他の時点があってはならない出会われうる時点」と定義する。このとき、第1部第2章において「他の神があってはならない神」が一つの神のみを指す内包的に定義された名であると示したのと同様に考えると、今は、一つの時点のみを指す名であることが示される。また、任意の者が出会う時点はかならず今であり、その者が見る、スマホの日付と時刻がなんらかの時点を表示するという出来事はかならず今の一部であり、したがって、その者がスマホを一瞥すればそのスマホの日付と時刻は今を表示している見込みが十分に高いということになる。本節では、以降、ことわりがない限り、「今」は上のように定義されているものとする。
 1-1において、「「今」の語の意味は、発語に均一に依存して変化すると考えるべきである」と述べたが、本節での定義は、何ものにも依存していないので、この要件を満たしていると言える。
 1-2と同じように、「私はある一つの時点にのみ出会う」という仮定(仮定①)のもとで、私と時間の関係について考察すると、私は仮定①のように仮定してはならず、「私はある一つの時点にのみ出会う」と私が考えることはあってはならないことが示される。
 また、「私がある時点に出会うという出来事はその時点の部分である(私がある時点に出会うという出来事は、その時点においてのみ起こる)」(仮定②)と仮定し、そのもとで私と時間の関係について考察すると、私が仮定②のように仮定してはならず、「私がある時点に出会うという出来事はその時点の部分である」と私が考えることはあってはならないことが示される。
 以上をまとめると、以下のようになる。

(1)   私はある一つの時点にのみ出会うと、私が考えることはあってはならない。
(2)   私がある時点に出会うという出来事はその時点の部分であると、私が考えることがあってはならない。

 これらのことは、「時が流れて見える」ことや、「モノが動いて見える」ことが可能となるための条件であるように思われる。
 他者または私の記憶の中の私である者pにも、(1)や(2)に相当する掟が課されると考えることはできるが、それらは私に課される掟ではないので、私は、「pはある一つの時点にのみ出会う」、あるいは、「pがある時点に出会うという出来事はその時点の部分である」と想定することができる。

 さて、「「今」と言う者が出会いうる他の時点があってはならない「今」と言う者が出会いうる時点」と定義された今については、「今」という語が他者や私の記憶の中の私によって言われる場合、その発言における「今」が指すものが、「「今」という語が言われた時点」に一致すると見做すことができることが1-2で示されたが、本節で定義された今について、「今」の語が他者や私の記憶の中の私によって言われた場合、その発言における「今」を、何らかの意味で、その発言がなされた時点と同一視することはできるだろうか。

 まず、発言において「今」の語が用いられる場合、発言者は「今」がどのような時点であると考えているかを検討する。スマホが正常に機能していない可能性が排除できないため、どんな者も、今がある特定の時点であると確信することはできず、今がある特定の時点かもしれないと思うことしかできない。そのため、「今」という発言において、発言者は、今が、自分に今がその時点であるように見えているところの時点であると考えていると見做すべきである。よって、問われるべき問いは、「「今」の語が他者又は私の記憶の中の私である者によって言われた場合、その者が、今はその発言がなされた時点であると考えていると見做すことができるか」である。
 次に、他者pが「今」と言うという出来事に私が出会う場合を検討する。私はpが今に登場すると見做すので、pはこの発言がなされた時点であるところの今に出会い、それが今であると思って「今」と言っていると見做すことができる。
 最後に、歴史資料又は私の記憶における他者又は私である者pによる「今」という発言について検討する。歴史資料や私の記憶は、今より前の時点の部分をなす出来事を記録したものであると考えられるので、pによる発言は今より前の時点tにおいてなされたと考えられる。出会われうる時点は今のみであるので、pによる「今」という発言が、pが何らかの時点に出会ったことを根拠になされたと想定するならば、pが出会った時点は今であることになる。しかし、pは時点tに登場するので、pがなんらかの時点に見える時点に出会ったと想定するなら、pは時点tに見えるものとして今に出会ったと想定するのが自然である。よって、pは、時点tにおいて、時点tよりも後の時点であるところの今に、時点tに見えるものとして出会い、今が時点tであると思って「今」と言っていると想定できる。

 以上で、「今」の語が他者又は私の記憶の中の私である者によって言われた場合、その者が、今はその発言がなされた時点であると考えていると見做すことが、私にはできることが示された。

 ここで、もう一歩踏み込んで、出会われうる出来事は、すべての時点に含まれるすべての出来事のみであるとし、出来事に出会う者であることが精神であることの本質の一部をなすとする。精神は今にのみ出会うため、私が、なんらかのものpが精神であることを確認するためには、私はpが今に出会うという出来事に出会わなければならない。しかし、私が今以外の時点に出会うことはないので、私は、pが今に出会うという今の部分をなす出来事に出会うことになるが、私は(2)の掟のもとにあるので、私は、pが、「私と同じように」出来事に出会う者であると信じることはできない。よって、私は、pが精神であることを十全に確かめることはできず、私でない精神が存在するか否かは、私の探求の対象になりえない。
 さらに、私は(2)の掟のもとにあって、そもそも、私は、私が今に出会うという出来事に出会えないので、私は私が精神であることを確認できないということになる。

第2章 今と名指し

2-1 このライオン

 本章では、今が任意の者を拘束し、そのことによって、その者が、名でない内包的に定義された名詞を用いて自らが出会うものを名指す一般的な方法を得ることを見る(*)。ただし、本章において、断りがない限り、「今」の語は、1-3でなされたように定義されていることとする。また、時間に属するすべての時点をあわせたものに含まれる出来事の他に、出会われうる出来事はないものとする。

* 本章は、谷口正一 2022 『ゾンビに語りうることと、A 変容』https://drive.google.com/file/d/1ytpwYPcc05gO0JpnaMwrRVGV4QfXwOcq/view から着想を得て書かれた。

 今が任意の者を拘束することを見る。任意の者はなんらかの出来事に出会いうるが、任意の者が出会いうる出来事は、いずれかの時点に含まれる出来事である。さらに、時点のうち、今以外の時点が出会われることがあってはならず、任意の者は、今に含まれる出来事にしか出会いえないことになる。この意味で、任意の者は今に拘束されていると言える。

 ある者が、「このライオン」と言えば、その者は一頭のライオンを指示しているとされるが、この事態を、「このライオン」という語が名であることとしてとらえて、「このライオン」という語が何であるかを考える。それをするにあたり、「(何々に)出会う」という行為の対象を、出来事だけでなくモノにまで拡大し、nを名詞として、「nに出会う」ことを、nが登場する出来事に出会うこととする。
 なんらかの者pが「このライオン」と言うことを考える。「このライオン」が、「pが出会う唯一のライオン」を意味すると考える。今の部分をなす出来事以外にpが出会いうる出来事はなく、pが出会いうるライオンは今に登場するライオンのみである。よって、「pが出会う唯一のライオン」は、「今に登場するライオンのうちpが出会う唯一のもの」であることになる。「今に登場するライオンのうちpが出会う唯一のもの」以外のライオンにpが出会うことがありうるかを検討すると、そのようなライオンが登場する出来事は今以外の時点の部分をなす出来事となるため、pが「今に登場するライオンのうちpが出会う唯一のもの」以外のライオンに出会うことはあってはならない。したがって、「今に登場するライオンのうちpが出会う唯一のもの」は、「pが出会う他のライオンがあってはならないpが出会うライオン」であることになり、これは、第1部第2章と同様に考えると、一つのライオンのみを指す名であることがわかる。

 以上で、「このライオン」が、「pが出会う唯一のライオン」を意味することとすると、「このライオン」は一つのライオンのみを指す名となることが示された。このように、今の重要な役割は、すべての者を拘束し、そのことによって、すべての者が、「この」という表現の利用を通じて、自分が出会うものを名指せるようにすることであると考えられる。このことから、「今」と言う語は、誰もが均しく使える語でなければならないことがわかり、1-1における、私の「「今」という語の意味は、発語に均一に依存して変化すると考えるべきである」との指摘は、正しかったとわかる。
 また、上の、なんらかの者pが「このライオン」と言うということについての議論は、pがどのような者であるかについて、また、pが今や時間をどのようなものだと考えているかについてのいかなる想定にも基づいていない。上の議論は、任意の者によって言われた「このライオン」という言葉が、今の助けによって、どのようにして個別的なモノを指す名になるかを解明しているのみである。

 以上の考察を一般化すると、名でない内包的に定義された名詞nについて、「このn」は、「pが出会う唯一のn」を意味し、その意味を分析すると、「pが出会う他のnがあってはならないpが出会うn」になり、これは一つのnのみを指す名であることになる。これが、今に拘束された者が、名でない内包的に定義された名詞を用いて自らが出会うモノを名指す一般的な方法である。さらに、内包的に定義された名詞を用いずに何かを指す方法として、単に「これ」と言うという方法があるが、「これ」が「pが出会う唯一のモノ」を意味するとすれば、「これ」は「pが出会う他のモノがあってはならないpが出会うモノ」となり、「これ」は一つのモノのみを指す名となる。また、本節では、「今」の定義を1-3のものとしているが、「今」の定義を1-2のものに置き換える場合は、「このn」を、「今に登場するnのうち、pが出会う唯一のもの」と定めれば、これは「pが出会う他のnがあってはならないpが出会うn」になり、一つのnのみを指す。そのため、「今」の定義が1-2のものであっても1-3のものであっても、「このn」によって個別的なnを指すことは可能となる。

 たしかに、「今」というものを導入せずとも、pを任意の者として、「pが出会う他のnがあってはならないpが出会うn」は、一つのnのみを指す名となるので、これが「このn」の定義であると考えることは可能である。しかし、今があるせいで、私は、「今出会う」ということと区別された「出会う」ということがどういうことかわからないのであるから、仮に「pが出会う他のnがあってはならないpが出会うn」が「このn」の定義であったとしても、私の「このn」の理解は「今出会う」ことの理解を通じたものでしかありえないのである。

 しかし、私が「このn」と言うとき、私は、今についての観点抜きに、「このn」は「私が出会う他のnがあってはならない私が出会うn」を意味すると考えなければならない。なぜなら、「このn」が「私が出会う唯一のn」を意味する場合、私が「このライオンはライオンAであるかもしれないし、ライオンBであるかもしれない」(ここで、「ライオンA」、「ライオンB」はライオンの個体の名であるとする)と考えるとき、私は「私が出会うライオンはライオンAであるかもしれないし、ライオンBであるかもしれない」と考えることになるが、ライオンAとライオンBの少なくとも一方は「私が出会う他のライオンがあってはならない私が出会うライオン」ではなく、そのように考えることはあってはならないからである(*)。

* 私は、「他の神があってはならない神」を、「この神」と指すことができない。というのも、「他の神があってはならない神」以外の神はなく、「この神」は神であるので、結局、「この神」は、「他の神があってはならない神」を意味するからである。したがって、当然ながら、「この神は、「他の神があってはならない神」である」という文は、「「他の神があってはならない神」は「他の神があってはならない神」である」というトートロジー(同語反復)を意味する。このように考えると、私は、「他の神があってはならない神」を、「これ」と指すより他なく、「これは「他の神があってはならない神」である」と言うより他ないことがわかる。今についても、まったく同様に考えると、私は「この時点」によって今を指すことができないこと、「この時点は今である」という文が「今は今である」というトートロジー(同語反復)を意味すること、私は今を「これ」と指すより他なく、「これは今である」と言うより他ないことがわかる。

 私が「このn」と言うことで初めて指示することができるようになるものを私が指示するためには、私はそのものに出会う必要があるし、私が「このn」と言うことで初めて指示することができるようになるものが登場する出来事を私が言い表すためには、私はその出来事に出会う必要がある。そこで、本節の最後に、言葉遊び的に、私が「このn」と言うことで初めて指示することができるようになるものやそのようなものが登場する出来事のみが、私が出会う必要があるものや出来事である、と考えてみる。1-3の最後の段落で、私は、「私は、私が今に出会うという出来事に出会えないので、私は私が精神であることを確認できない」と述べたが、これは、私が、精神であるはずの私に出会えないということである。しかし、私は、「私」の語の第1の機能により、なぜか私を指示することができるので、幸いにも、私は私が出会う必要のないものである。また、Sを文字列として、「私がSと思う」という出来事を考えると、私は「私」の語の第1の機能により指示され、SはSによって指されるので、「私がSと思う」という出来事は、私が出会う必要のない出来事である。同様に、「私がSと理解する」とか、「私がSと期待する」などの出来事も、私が出会う必要のない出来事である。「私がSと思う」のような、私を主語とした私が出会う必要のない出来事に、なぜ私が出会う必要がないかを考えると、そのような出来事が、私が、単に行われればよいような行為を行うという出来事であるからだと考えられる。そうであれば、私は、私が「思う」とか「理解する」とか「期待する」といった行為をするという出来事を、出会われえない出来事、すなわち、時間の中の出来事でない出来事であると信じて、それらの行為を行うこともできる。

2-2 この痛み

 名でない内包的に定義された名詞nについて、「このn」と言うと、「このn」が個別的なnを指すことが1-1で示された。以下では、「この痛み」について検討することから、「このn」という発言における「このn」が何であるかを明らかにする。
 「この痛み」という言葉によって指される痛みは、一般的な痛みが持つ性質、すなわち、「痛みである」という性質だけでなく、「ひりひりしている」とか、「燃えるようである」などの、「この痛み」に固有の性質を持つとされ、そのことによって、「この痛みと同じ痛みを感じたことがある」という文は、「今痛みを感じており、かつて痛みを感じたことがある」とは異なる事態を表現できることになる。このことは、「このライオン」が、ライオンが一般的に持つ性質、すなわち、「ライオンである」という性質だけでなく、「オスである」とか、「赤ちゃんである」とか、「このライオン」に固有の性質を持つことと平行的に考えれば当然であるとも考えられる。しかし、そうであろうか。

 「この痛み」が個別的な性質を持つことが非自明なことであることを見るために、まず、「このライオン」が個別的な性質を持つことについて検討する。「ライオン」は「ライオンであるモノ」であり、「このライオン」は、「この、ライオンであるモノ」である。そして、「この、ライオンであるモノ」によって、特定のモノが指され、指された特定のモノは、特定のモノであるが故に、「ライオンである」という性質に加えて、個別的な性質をも持つことになる。
 「この痛み」についても同様に考えるためには、まず、「痛み」は「痛みであるようなもの」であると考えることになる。そして、「この痛み」は、「この、痛みであるようなもの」であり、「この、痛みであるようなもの」は、特定のものであり、特定のものであるが故に、「痛みである」という性質だけでなく、個別的な性質をも持つことになる。このように、「このライオン」と「この痛み」を見比べると、痛みがそれであるところの「もの」は、ライオンを構成する物質的なモノとまったく同じような振る舞いを見せるため、ライオンがそれであるところのモノとまったく同じモノであると考えるより他ない。

 ここまでの議論では、モノには、言語で言いあらわし尽くされ難い個別的な性質があることが当然のこととして前提されてきた。なぜそのように見做さざるをえないかということを、あえて歴史的な観点から考えれば、それは、言語は大昔には見出されていなかったのだから、言語を構成する語は新たにひとつずつ見出されてきたはずであり、内包的に定義された名詞も例外ではないとしか考えられないからである。既に見出されている語のみを用いた説明を与えることで新たに名詞を定義することによっては、実質的には新たに内包的に定義された名詞が見出されたとは言えない。内包的に定義された名詞を新たに見出すには、「この動物」とか「この感覚」といった個別的なモノの名指しの方法を用いて、「「ライオン」は、「この動物と(何らかの意味で)同じ動物」を意味する」とか、「「痛み」は、「この感覚と(何らかの意味で)同じ感覚」を意味する」のように、個別的なモノの性質が取り出されるように名詞を定義する必要があり、そのような営みによって、内包的に定義された名詞が長い時間に渡って実際にひとつずつ新たに見出されてきたのだから、内包的に定義された名詞nを用いて「このn」と指された個別的なモノは、「nである」という一般的な性質に加えて個別的な性質を持ってい「う」ると考えざるをえないのである(*)。本論文では、以降、本段落で「モノ」として言及してきたものを、「言語で言いあらわし尽くされ難いモノ」とも呼ぶことにし、単に「モノ」として言及する場合の多義性を回避できるようにすることにする。

* 「朱色」に、「朱肉を見たときに生じる「色の感覚」」という説明を与えても、「朱肉」に加えて内包的に定義された名詞が実質的に新たに見出されたとは言えない。「朱色」に、「この「色の感覚」(ただし、私は今この朱肉を見ている)と同じ「色の感覚」」という説明を与えると、「朱肉」に加えて内包的に定義された名詞が新たに実質的に見出されたことになる。ただし、上の定義における「同じ」を、「まったく同じ」であると見做すと、「朱色」なるものはすべて「まったく同じ」であることになってしまい、どの朱色の個体を取り出してもそれは「朱色である」という一般的な性質を持ち、それに加えていかなる個別的な性質も持たないことになってしまう。もちろん、「ライオン」に、「この動物とまったく同じ動物」という説明を与えれば、どのライオンも「ライオンである」という一般的な性質しか持たないことになる。とはいえ、ライオンは物質であるから、幅のある時間に渡って持続的に存在し、その個体は、ゆくゆくは「ライオンである」という一般的な性質に加えて個別的な性質を持つことになる。このことから翻って考えると、むしろ、何らかの名詞を定義するに際して、「この動物と同じ動物」という説明を、「この動物とまったく同じ動物」という意味で与えるのは、不適切であることが導かれる。他方、朱色は感覚であるから、持続的に存在するとされないため、上の「朱色」の定義における「同じ」を、「まったく同じ」であると見做すことができ、その場合、朱色は、「朱色である」という性質に加えて個別的な性質を持つことはないことになる。このように、朱色の個体が個別的な性質を持たないこと、すなわち、さまざまな朱色が存在しないことを根拠として、「朱色はモノではない」と論じることが可能であると思われる。以下で、そのような主張に抗して、「朱色」が「モノ」であると主張する根拠を、3つ提示する。1つ目の根拠は、「さまざまな朱色は存在しないから朱色はモノではない」という推論が誤りであるということである。たしかに、朱色は、「モノ」に特徴的な、「個別的な性質を持つ」ということがない。しかし、朱色を見て、未だ言語を用いて言いあらわされたことのない性質を見出し、他の特定の「色の感覚」にも同じ性質を見出して、これらの「色の感覚」に共通の性質を「エグみ」と名付けることは可能であり、「個別的な性質」なるものを持たなくとも、未だ言語で言いあらわされていない性質を見出すことができるのであるから、朱色をモノだと考えることは可能であり、したがって、「さまざまな朱色は存在しないから朱色はモノではない」という推論は誤りである。さらに言えば、「さまざまな朱色は存在しない」(ここでの論じ方に沿うように言い換えると、「朱色の個体はすべて同じである」)ということが、朱色の個体は存在しないということと混同されたことによって、朱色に代表される「色の感覚」は、モノではなく、「感じ方」、すなわち、「感じる」という行為のあり方である、あるいは、感覚の質であるという説が生まれたものと推察される。2つ目の根拠は、物質はモノの典型とされるが、「さまざまな物質的なモノ」も現代の物理学では存在しないとされているのだから、このことからも、「さまざまな朱色は存在しないからモノではない」とは論じられない、ということである。聞きかじり程度の知識に基づいて大雑把なことを言うと、(素粒子を研究の対象とする)場の量子論においては、「場」というただ一つのモノが言語で言いあらわし尽くされ難いことは、あたりまえの前提となっている。というのも、場の量子論が研究の対象とする物質的なモノは、宇宙全体とも同一視される「場」のみであり、すべての物理的な現象は「物質が存在する」ということも含めて場の状態であり、そのため、新たな素粒子は、場の新たな性質としてのみ発見されうるからである。しかも、場はただ一つであり、したがって場の性質は論理的に一つであるから、「さまざまな場は存在しない」。このことからも、「さまざまな朱色は存在しない」ことをもって朱色がモノでないことを導くのは誤った推論であるとわかる。3つ目の根拠は、「この「色の感覚」」という指示は、「私が出会う他の「色の感覚」があってはならない私が出会う「色の感覚」」という名の力によってなされているのだから、その名が指す先のモノが何であるかを、私が論じることなどできるはずもない、ということである。言語がまったく見出されていなかった状態から徐々に新たに言葉が見出される過程において、一貫して、言語を用いる者の手を離れた「この何々」という言葉の力によってモノが指され、その性質が取り出されてきたはずであるから、そのような営みにおいて、「何々」が何であろうと、指されるものはモノであるとしか言いようがないと考えなければならないのである。さらに言えば、「色の感覚」は「感じ方」であるということが明らかになるということそのものが、「色の感覚」が言語を用いる者の手を離れた「モノ」であることの証左である。

 しかし、「感覚」もまたモノであるとすると、奇妙な事態が生じる。痛みは、私の体が空間に占める領域にも、他者の体が空間に占める領域にも等しくあらわれるモノであるはずなのに、私が出会いうる痛みは、私の体というある特定のヒトの体が空間において占める領域にあらわれる痛みだけであることになる。この奇妙な事態については、第4部で考察する。

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