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里山から自治を考える 06「理念なき、いのち輝く未来社会」

いのち輝く未来社会のデザインは身体性なのか脳化社会なのか

今の方向性=資本主義、脳化社会、そしてAI化を止めることはできないと考えています。この流れに対して「身体性」がどう関わっていくのでしょうか。そもそも必要ないのが未来社会かもしれません。全てバーチャルでもよいというのが未来社会の方向だと思うからです。
スピードの遅い、限界のある「身体性」に対して、どこまでも可能性を持っているようなAIや脳化社会が、何らかの物事を提示した場合、これが身体性を持ったリアルなのか、AIが作ったバーチャルなのかが、わからなくなった時点でもうAI側の勝利なわけです。
ではAI側が勝る世界が「いのち輝く未来社会」なのか、これが本当に豊かなのか、その視点が大きく欠けているのが、今回の万博です。

世代間(ジェネレーション)の問題

里山でも同様なのですが、全世代が何らかの形で里山に関わっている間は共通認識があったわけです。ところがある時期から、そもそも里山と関わらない世代が出てきて、里山との関係性がガサッと抜け落ちてしまった。そして高齢者しかいない里山文化圏みたいなことになっている。実際、高齢者しかいないんだから、その構成員で作り上げていくしかないわけです。
今回の大阪・関西万博を作っているのも高齢者しかいないとは言いませんが、すごく古い。
古い世代が資金を出して、古いしくみで、古い万博をやっているように思います。

理念なき1970年万博のトレース

本来、「いのち輝く未来社会のデザイン」を下支えする理念や定義、コンセプトがあるはずなんですが、その部分が見当たらない万博になっています。手法や映像は素晴らしいのかもしれないけれども、1970年の大阪万博に感じた、狂気のような理念が感じられない。
結局、大阪・関西万博=夢洲会場で行う万博以上のなにものでもないし、理念なき1970年万博のトレースになっていることが問題の本質ではないかと思います。


(対談の中では「いのち輝く未来のデザイン」と話していますが、正しくは「いのち輝く未来社会のデザイン」です)


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