里山から自治を考える 04 自治という幻想
2023.06.23
(行政を巻き込んだ)自治には票と政治がつきまとう。人口減少に対する恐怖が大半の人間のシナリオに影響している。それを乗り越えて、人間として共感できる大義が一体どこにあるのか。ドストエフスキーのテーゼを超えられるのか。
自治というけれど、そのためにはエリアで議員や市長を出さねば政策実現なんかしないわけです。ところが、川西市でいうと南部に人口が固まっていて、北部の里山を考えようというエリアはマイノリティ(少数派)になるわけです。そうすると里山とか地域循環とかいっていても、そんな要求は永遠に通らないわけで、単なるユートピア思想を吐いているだけに過ぎなくなってしまうわけです。
そういう意味で、私からするとUCOの自治なんていう言葉や概念は既に幻想なんです。では幻想だから思ってはいけないかというと、幻想や妄想の先に新しい未来が構築されるわけで、その芽を摘み取ってしまっては話にもならないんです。
大義はどこにあるのか
エネルギーの使い方がグローバルに展開しすぎて、底に破滅が待っている、とはわかりやすい話です。まただからこそ地域循環を考えねばならないというのも至極真っ当な話です。
結局、この議論は、人間としての大義がどこにあるのか。という点に帰着すると考えています。
私たちは、ずっと右肩上がりの経済成長モデルを信じ込ませられてきた人生を送ってきました。ですから今日より明日はきっと素晴らしいという前提の世界観が根付いている。
しかし、もう始まっているのが人口減です。人口減という恐怖は実は並々ならぬものがあると感じています。この「恐怖」に人類は本当に耐えられるのだろうか。私はいつもそう感じています。
結局帰着する点は唯ひとつ。
「人間としての大義がどこにあるのか」ではないでしょうか。
なんのための民主主義なのか、自治なのか、地域循環なのか、里山なのか。
ここに重要なポイントがあると考えています。
恐怖としての人口減
人口減の日本なのですが、その世界観は実は体験したものではないんです。全く未曾有の世界がこれから繰り広げられていく。その最前線に私たちはいます。この恐怖の前に、人は必ず保守的な手を売ってくるでしょう。そのくらい恐ろしいわけです。未体験ゾーンとしての人口減。ですがその際に、かのドストエフスキーは、人間には2種類あって、使う人と使われる人に分かれると提言していました。
富裕層と貧困層といってもいかもしれません。能動的市民と無関心市民と呼んでもいいかもしれません。これからのカタストロフィに対して、私たちはどこをめざし、どう生きていくのか。
その一人ひとりのシナリオが今まさに問われているわけです。
さてこれからは、さとやまたろう氏がプロットする未来像について共有していきたいと思います。