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里山から自治を考える 08「一人ひとりが万博になる」


オリンピックと万博の違い

オリンピックは観に行って応援することはできますが、競技そのものに参加はできませんよね。でも万博は本来、観に行くこと自体が参加となる形式の博覧会です。つまりテレビで観戦可能なオリンピックに対して、万博って実際に会場に足を運んで体験しないとわからないという「身体性」の祭典であるとも位置付けられると考えられます。

脳化社会での万博として提示

そして今回の大阪・関西万博は、1970年の大阪万博でウケたやり方、従来の「身体性」の祭典のまま、何も考えずに突っ込んでいっているのです。
ですが、脳化社会、バーチャルやAIがこれほど進んでいる社会において本来必要なのは、わざわざ現地に足を運んで観なければならない「身体性」における喜びとは何なのか、を表現することであったはずです。そうしないと人は集まらないわけです。
1970年大阪万博は、そこに行くこと、あの空気感を味わうこと自体に喜びがあったわけです。ネットのない、情報もない時代において、様々な感動と発見が、あの場所・時間には存在していました。
ネットがある現代において、全てが情報化されている状態において、では何が「身体性」に近いのか、「身体性」を取り戻すことにつながるのか。

そして個人、一人ひとりが万博となる

結局、究極の「身体性」って、個人に依拠すると思います。一人ひとりが、やりたいように好きなことをしたいとなると、マスで喜ぶというよりは、一人ひとりの嗜好性に依存することになる。好きなところに好きなように行くという「身体性」を伴う行動って、個人に還元されると思うんですよね。とすると、小ロット化した面白いものが、リゾーム※のように広がっている、小ロット化万博ということになるのではないか。5人しか入れない万博。それってしかし、公共がそれをやることはできないので、民間がやるしかないんだと思います。

面白がる力が関西の力

里山のフィールドパビリオンをやっていて、これ「万博なんですよ!」というと人が集まる、動くのを実感します。万博という言葉には、まだそういう幻想が残っています。
パリ万博から始まったものが、大阪でこういった形で終焉を迎えるのかもしれません。でも面白がる力こそが、関西の力だと思うんですよね。
ですから面白そうだな、だけではなく、これを聴いた、この文章を読んだあなた自身が万博を妄想し、「身体性」を持って実現すること。これを期待しています。

リゾーム
現代思想で、相互に関係のない異質なものが、階層的な上下関係ではなく、横断的な横の関係で結びつくさまを表す概念。幹・枝・葉といった秩序、階層的なものを象徴する樹木(ツリー)に対していう。フランスの哲学者ドゥルーズと精神科医ガタリが共著「千のプラトー」で展開した概念。

デジタル大辞泉[小学館]

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