里山から自治を考える01「里山の定義」
2023.06.20
里山って一体何をもって「里山」足り得るのでしょうか。
「・・・・・」
ボーっと生きてるんじゃねぇよ!と5歳に怒られそうな内容で始まった、さとやまたろう氏との対談その1が、この「里山の定義」です。
新自由主義に対抗する考えとして、里山資本主義が流行した際に少しだけ聞きかじった程度でしかない多くの方々にとって、里山の定義自体に大きな意味があるように感じます。
さとやまたろう氏曰く
「里山林=生産林で構成されている山のこと。人々が生活していくために、生産のための供給源として存在している山を里山といいます」
必要がなくなっていった里山
元々、里山は、生活の中で貴重なエネルギー源として循環していたわけです。小さな循環を、時間を掛けて作って、それで生活をしていました。ところが近代化の過程で、もっと大きなエネルギー循環を必要とした人間は、里山という小さな循環を捨て去り、化石燃料や原子力といった大きなエネルギー循環を生活の基本に据えるようになってしまった。
当然、エネルギー源としての里山は見向きもされなくなり、そして消滅していく過程にあるわけです。今更、薪炭(しんたん)=薪や炭の暮らしにはなかなか戻れないわけです。
生活単位が、集落からもっと大きなエリアでのエネルギー循環になっていった段階で、人々は、里山という地域循環のシステムを放棄したわけです。
最果てとしてのグローバリズム
現時点では、このエネルギー循環は、集落も地方も国も超え、地球全体で循環させる「グローバリズム」が基調となっています。ことここに至って、このグローバリズムにより、大量のエネルギー消費、しかも生態系も循環も破壊するような状態に陥っています。
さすがにグローバリズムの問題点が現実化している現時点で、この最果てとしてのグローバリズムの選択がどうも間違っていたのではないかと感じ始めている人々が増えてきています。このグローバリズムがひいては、人類の発展という名の下での破滅を引き寄せてしまうのではないかという危機感を感じるに至っているわけです。
選択肢としての地域循環
私自身は、環境省とともに北摂里山地域循環共生圏の活動に参加しています。ここは旧摂津の国、川辺郡奥川辺地域あたりのことで、作物、地勢、文化、が共有できるエリアです。
ですがここでひとつ大きなテーゼが現れるわけです。
「里山という地域循環は、あなたにとって本当に必要ですか。」