「シビルウォー アメリカ最後の日」がなぜつまらないのかを2週間考えた
めちゃくちゃ期待をしていた。内戦が勃発しているアメリカを記者と写真家のジャーナリスト一行がワシントンD.C.を目指して旅をするロードムービー。ざっくりとした内容を聞いただけでも面白そうだし、全米でもヒットしているらしい。これはおそらくアメリカだけでなく、世界的に起きている分断に対する示唆に富んだ映画に違いない。公開前から楽しみにしていたし、いっそ正座で鑑賞するくらいの気持ちだった。
それがどうだろう。いざ映画が始まり物語が進んでいくにつれ、足は痺れてきて、遂には正座を崩してしまった。ちょっと真面目に構えすぎたのだろうか。というか、正直な気持ちを言ってしまうと、割とつまんないかもしれない。
なんでこんなことになってしまっただろう。映画を観終わった私は自転車をこいで家路につきながら考えていた。理由はいくつかある。まずはそれを整理してみたい。ちなみにここからは「シビルウォー」に対して、ほぼ否定的な意見しか出てこないので、この映画を好きな方は読まない方がいいかもしれません。
そもそも、なぜ内戦状態なのか
私の見落としだったら大変申し訳ないんだけど、そもそもなんで内戦してるのかがさっぱり分からない。19の州が合衆国連邦から離脱した状態で、超法規的な三期目に就任した大統領が率いる政府軍とカリフォルニアとテキサスの西部連合軍が衝突していることは分かるんだけど、なぜそんなことになっているのだろう。アメリカで大統領が超法規的な権力を手に入れるのはかなり難しそうだが、それが可能になった経緯が全然分からない。そのためリアルな戦闘シーンを観させられてもポカーンとしてしまう。旅の途中で主人公たちが出会う兵士が何と戦っているのかを理解していないというシーンがあるが、私もさっぱり理解できなかった。
どうやらジャーナリストの主人公たちは分かってるらしいから、少しでも説明してほしかった。別に何でもかんでも説明する必要はないのだが、実在の戦争ではないSF的な設定なのだから、経緯の説明は最低限必要だと思う。
もし戦争というのは善悪や敵味方、目的すらも不明瞭なのだという主張をしたいなら主人公を兵士や一般市民にすべきだった。状況を俯瞰してるはずのジャーナリストが主人公だとなおさら不自然に感じる。というか、ただ「ラストオブアス」みたいな映像を撮りたかっただけなのでは?という邪推すらしたくなる。ちなみに「ラストオブアス」は状況の経緯や各勢力同士の関係など、設定がめちゃくちゃ細かく決まっているが。
ジェシーは写真が上手すぎる
23歳の新米カメラマンであるジェシーが持っているカメラはNikon FE2(1982年発売)。このカメラは露出、ピント、フィルム送りまで全てが手動のフィルムカメラだ。対するベテランカメラマンのリーはSONYのデジタルカメラを使用している。普通ならお互いに持っているカメラが逆だと思うのだが、若い世代の方がローテクカメラを使っているのが本作の特異なところだ。
ジェシーが初めての戦場でフィルムのフルマニュアルカメラを持ってくるとか、リーからすると舐めとんのかってなりそうなものだし、最初のうちは全然いい写真が撮れないという展開を予想していた。ところがどっこい最初からジェシーの撮る写真がどれも素晴らしい。嘘だろ、初めての戦場でこんなん撮れたら天才じゃないですかという出来栄えだ。なのでジェシーには最初から撮影技術で成長する余地はほとんどなく、リーは写真家として乗り越えるべき壁になっていない。
あと、デジタルカメラが当たり前の時代に新人カメラマンが戦場に持ち込むのがなぜこれなのかの根拠が父親のお下がりなのは弱すぎると思う。この映画の舞台設定ならフィルム自体がかなり高価で、お金を持ってなさそうな新米カメラマンでは手に入れるのも大変そうなのに。
せめて何かしら合理的だと思える理由が欲しかった。例えばデジタルカメラは過酷な状況だと壊れやすく、むしろ古いカメラの方が構造的に単純だから壊れにくい、とか。でも実際はモノクロで粒子が粗い画像を差し込みたいという監督の好みなだけな気がする。
無関心への批判
ジェシーとリーの親は両方とも田舎暮らしで政治には無関心。内戦に対しても見えないふりをしている。その親への反発心は2人に共通している感情だ。
この無関心への批判というのは、旅の途中で寄った町のエピソードへ接続する。その町の住民たちは内戦への干渉を徹底して避けることで、平穏な空間を獲得している。旅の一行が立ち寄った服屋の店員は内戦に全く関心を示さず、好きな本を読むことに集中しているばかりだ。しかし、店の外にある建物を見上げてみるとそこには武装した人間が監視をしており、それを見つけたサミーとリーはその平穏さの欺瞞に嫌悪感を抱く。
そもそも、全米が内戦で混乱を極めている中で小規模な1つの町が、その混乱への無関心を保てるくらいの平和を手に入れられていること自体が凄くないか。かなり優秀な自警組織が機能してるに違いない。私なんかは無関心への批判よりも、この町がどうやってこんなに平和な空間を保ててるのかの方がよっぽど気になってしまう。町のインフラを維持するだけでも超絶ハードルが高いだろう。しかも近所ではドンパチ戦闘が繰り広げられてるのに、女性が1人で犬の散歩が出来るくらい治安が安定している。それなのにジャーナリストたちは住民の無関心に呆れ、嫌悪するだけだ。
なぜ、こんな奇跡みたいな町が存在できてるのかというと「武力による平和のもとで、世界の混乱に無関心な欺瞞に満ちた人々を批判したい」という作り手の意図があるからだ。ただそのためだけに存在している。
どの種類のアメリカ人か
本作で最も印象的なシーンの1つであろう、ジェシー・プレモンスが演じる白人至上主義者が主人公たちに出身地を詰問しながら、アジア人ジャーナリスト2名を射殺する場面。
このシーンの導入は2台の車で主人公たちがはしゃぐところから始まる。はっちゃけた集団が一気に恐怖の状況へ陥るという、ジャンルホラーの典型的なパターンだ。彼らを捕らえた人種差別主義の民兵?は殺害した有色人種の人々を巨大な穴に放り込み、その上から消毒用の石灰をばら撒く。まさしくホワイトウォッシュしているわけだ。
彼らが話の通じない非常に危険な存在であることを黒人であるサミーはいち早く察知する。それは黒人たちは日頃から受けている被差別の感覚をよく分かってるからだ。では早々に銃で撃ち抜かれたアジア人の2人は差別されることに無防備なアホウドリだったのだろうか?彼らのことを監督がどう思っているのかがとても気になる。
そしてサミーも凶弾に倒れ、結局のところ殺されたのはアジア人と黒人だ。かつてジャンルホラー映画では有色人種が真っ先に死ぬことがお約束のようになっていた時代があったが、その焼き直しを2024年に観た気分になった。
リー
戦場におけるジャーナリズムとは理不尽で無慈悲な暴力が許容される空間に「倫理」を持ち込む行為である。戦場写真はその強烈なイメージによって瞬く間に世界へ拡散していく。そして時には情勢を人道的な方向へと引き込む力を持つ。それと同時になぜ目の前の人々を助けないのかという素朴な批判もあり、常に報道カメラマンはジレンマに晒されている。
このジレンマは映画を通してリーが抱え込んでいる。彼女は冒頭のホテルでの入浴シーンからも分かる通り、疲れ切っていて今にも崩れ落ちそうだ。リーは戦場を撮影する時、この戦争が一刻も早く終わってほしいと願っているが、戦況は激化の一途を辿っていく。そして旅を通じて、遂にサミーの死を撮影したデータを自ら消してしまう。それは目の前のことを記録するという彼女の信条を手離してしまう瞬間だった。そして彼女は死を迎えることになるのだが、あの行動はジャーナリストとしての敗北や脱落だと言えるのか。そういえば、リーが美しいと褒めたジェシーの写真は銃弾に倒れた兵士を必死に助けようとする仲間の兵士たちを撮影したものだった。
ジェシー
ジェシーは若く野心を持ち、なおかつ写真家としての才能に溢れている。しかし彼女はやがて戦場の空気に呑まれていき、カメラを銃に見立てたような戦争ごっこに興じることになる。ジェシーはリーのような思慮深さを得る機会を逃し、ジャーナリストとしての成長を経ることなく映画は終わっていく。リーの死を迷いなく撮影する行為(リーがサミーの死を撮った写真を削除したことと対になる)が示しているのはジェシーが真のジャーナリストになったことでも、闇に落ちたことでもない。ただ彼女が戦場を撮影する意味を安易に勘違いしてしまったことを示しているだけだ。映画のラストに映し出されたジェシーが撮ったであろう写真。あれはリーがガソリンスタンドで、その場を取り繕うためだけに撮影した写真と何が違うのだろうか。その意味で、リーとジェシーとの距離はまだまだ遠い。
ジョエル
まずは状況を俯瞰的に捉えること、そしてなるべく先入観を排してヒト、モノ、コトの実像へ迫ること。それがジャーナリストが基本的に取るべき態度なのではないだろうか。しかし、ジョエルはそれとはだいぶ違うようだ。ジョエルが想定する大統領への質問は相手を挑発するような内容ばかりで、大統領がどんな人物なのかを掘り下げようとせず、最初から恣意的に決めつけているように見える。つまり大統領は権力に貪欲で、平気で部下を使い捨て、自己愛に溺れた愚かな人物であると。
映画のラストで大統領から命乞いをする言葉を引き出した時のジョエルの満足そうな顔を思い出す。自分が思い描いた通り、まさに欲しかった言葉を手に入れたのだ。
そこで性格の悪い私はつい想像してしまう。もし大統領がその立場に相応しい立派で高尚な言葉を述べたら、ジョエルはどんな顔をしたのだろうか。例えばルイ16世はフランス革命の波が吹き荒れる中、国外逃亡をしようとしたことで決定的に信頼を失い、断頭台に立たされることになった。その時に彼はこのような言葉を残している。「私は無実だ。しかし私は許そう。願わくば、私の血がフランス人の幸福の礎石となり、神の怒りをなだめるように」と。この演説は途中で遮られ、ルイ16世はギロチンにかけられた。なぜ演説が遮られたのかというと、処刑を見守る民衆の心がルイ16世へ傾くことを恐れたからだ。もし大統領がこのような言葉を述べたらジョエルはどうしたのだろうか。もしかするとこう言ったかもしれない。「早くこいつを撃ってくれ!」と。
まとめ
とまぁ、ここまでつらつらと書いてきたのだけど、実は気づけば観てから2週間くらい経ってしまった。なんで一本の映画がつまらなかった理由を考えるのにわざわざこんな時間をかけたのか我ながらよく分からないが、それなり有意義だった気もする。そして、その間に考えたことを大きくまとめてしまえばこういうことだ。
つまり、この映画は監督の見せたいことや主張のために物語が隷属してしまっている。その割にはそれを支えるべき設定がいろいろと甘い。そして与えられる情報が少ないため、なんか裏では凄く考えられてそうな雰囲気だけはある。そういう逃げ道が用意されているのがチラついて、余計に腹が立つ。おそらく私が書いてきたことについても、そういう問いが生まれること自体が狙いでもあった、とか言ってきそう。そういう観客を上から試してくるような、なめた態度をこの映画からはヒシヒシと感じる。要はこの監督は観客を信頼していないんだと思う。それを真面目に受け止められる懐の広い人からすれば、もしかすると示唆に富んだ映画に観えるのかもしれない。
でも私の懐は狭いので、この映画は真面目な戦争映画としても、ブラックな風刺コメディとしても観れなかった。私にとって「シビルウォー アメリカ最後の日」は中途半端にゆるくて、描かれていることにも納得し難い。総じてつまらない映画だ。それがこの映画を観てからいろいろと考えた末の結論である。
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