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空気を読むことを超えてゆく

1941年12月7日、日本軍がアメリカのハワイ真珠湾を攻撃した。それにより太平洋戦争が始まる。戦争の序盤は日本が有利な戦況だったこともあり、アメリカでは日本人への恐怖や怒りを煽る報道が連日繰り返されていた。それに伴いアメリカ国内で日系アメリカ人への態度が急速に硬化し、遂には彼らを「敵性外国人」として隔離するまでに事態は進行していく。
そのような状況の中で、日系人を擁護し続けた人物がいた。当時のコロラド州(※1)知事、ラルフ・ローレンス・カーである。日系人を一貫して擁護する彼に対する周囲の視線は非常に冷ややかなものだった。時には彼のもとに何通もの手紙が届くこともあり、そのほとんどが彼の政治的姿勢を非難する内容だった(※2)。

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戦争が始まるまで、ラルフ・カーの人生に日本が深く関わったことはない。彼の血縁に日本と関係するものはないし、日系人の友人がいたこともない。もちろん日系企業と特別な金銭取引があったこともない。つまり、彼には日系人を特別に擁護するような個人的理由が全くなかった。それなのになぜ、彼は自らの政治生命を危険に晒してまで公然と日系人を擁護し続けることを選択したのだろうか。

私の手元に一冊の本がある。本のタイトルは「日系人を救った政治家 ラルフ・カー 信念のコロラド州知事(アダム・シュレイガー 著、池田 年穂 訳、水声社)」。この本はラルフ・カーという政治家が歩んだ1938年から1942年までの軌跡を中心とした伝記である。今回はこの本を読み解きながら、彼が日系人を擁護することで一体何をしようとしたのかについて紹介したい(※3)。


1942年2月19日

当時のアメリカ大統領であるフランクリン・ルーズベルトは「大統領令9066号」に署名をした。その内容は「アメリカ西海岸およびハワイ一部地域に住む12万人の日系人に対して強制退去を命じる」というものだ。しかし、強制退去と突然言われても日系人はどこに行けばいいのか。ワイオミング州やアイダホ州、モンタナ州を含む数々の州知事が「敵性外国人」である日系人の受け入れに反対する声明を発表していく。そんな状況でコロラド州知事であったラルフ・カーはラジオを通じてこのような演説を行い、日系人の受け入れを表明した。

「もし我が国の軍隊を指揮する人たちが、太平洋岸から誰彼を移動させる必要があると言い、コロラド州に対してそうした人々の住居を一時的に提供することでこの戦争に対する役割を果たすよう求めるなら、私たちにはその命令を実行する準備ができています。戦時の措置として敵性外国人を移動させなければならないのなら、コロラド州に住む私たちは、義務を果たす十分な心の広さと愛国心があります。〜中略〜 世界の巨大な人種のるつぼであるアメリカ合衆国には、地球上のあらゆる国の子孫が住んでいます。一つか二つか三つか知りませんが限られた数の国にルーツを持つ人々を、それ以外の人たちが隔離したり、やたら非愛国的で忠誠でないと決めつけるのは、公平なことではありません。」

「デンバー・ポスト」はラルフ・カーの演説に対して「コロラド州はあのような黄色い悪魔などいらないし、それどころかこの州をアメリカ国民の敵のための聖域に変えることを許すつもりはない」と評している。この大統領令の対象となっている日系人たちも、アメリカ国民であるのに。
そして、この大統領令を発端として日系人を強制収容所へと送るまでの道筋が出来上がっていくことになる。

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憧れの人

ラルフ・カーは自らの政治活動において、常にある言葉を自問し続けていた。それは「リンカーンならどうしただろうか?」ということだ。彼にとって第16代大統領エイブラハム・リンカーンは英雄であり、憧れの人だ。そして彼はリンカーンに関する記事を熱心に蒐集するほどのマニアでもあった。1940年の演説でリンカーンについてラルフ・カーはこのように述べている。

「リンカーンはリベラル、真のリベラルでありました。〜中略〜 本当のリベラルというものは、自由の意味するところは外部からの規制や強制に影響されずに個人の権利を行使する自由である、という主張に一貫して従う人々のことであります。」

もうお気づきの人もいるだろうが、ラルフ・カーが日系人に対して擁護する姿勢を崩さない理由はここにある。つまり日系人を不当に差別することは、アメリカという国が掲げる「権利章典」の原理原則を揺るがすことだと彼は考えたのだ。もし日系人への迫害を許してしまえば、アメリカという国の基本理念を国民自らが放棄することになる。だから、日系人への迫害を認めるわけにはいかない。この信念がラルフ・カーを支えていたのである。

「合衆国憲法」と「権利章典」

このようにラルフ・カーの日系人擁護は「合衆国憲法」と「権利章典」をキーワードにすることで一気に読み解きやすくなる。ラルフ・カーの発言にはその信念に基づくものが多くあるので、いくつか紹介したい。

日本人は、私たちを守っているのと同じ憲法によって守られています。〜中略〜 もし彼ら日本人の血を引く人たちを傷つけるなら、まず最初に私を傷つけなければなりません。私は小さな町で育ちました。そこで私は、人種的な嫌悪が恥ずかしくて不名誉なものである、ということを学びました。人種的な嫌悪は、あなたや、あなたや、あなたの幸せを脅かすものなので、私はそれを軽蔑するようになりました。コロラド州では、彼ら日本人は完全に保護されます。
もし我らが彼らを「権利章典」の下に保護することを否定するなら、もし我々が彼らは48州のどこにでも住む権利を否定されるだろうと言うのなら、そして聴聞会も不正行為の告発もないままに彼らを強制収容所に送ったりするということがあれば、我々はアメリカという体制を根本からぶち壊していることになります。
肌の色が白だろうが黒だろうが浅黒かろうがどうでもよく、祖父の生まれた場所がどこであろうがかも関係ありません。もし我々が、今日全ての人間のために「合衆国憲法」と「権利章典」を守り保持できないのであれば、今から6ヶ月先には「合衆国憲法」と「権利章典」はいかなる人間をも守ってはくれなくなるでしょう。

その後、ラルフ・カーは1942年11月の連邦上院議員選挙で敗退する。それをきっかけに政治家としてのキャリアを終えた。その敗因には彼の日系人擁護が大きく影響していたと言われている。

それから40年後の1982年、当時の日系人監禁政策は軍事的な理由で正当化されるものではなく、人種的偏見・戦時のヒステリー・政治的指導力の誤った発露に基づくものだとした「拒否された個人の正義」という報告書が発表される。そこには政府による正式な謝罪と賠償金等の事項も記載されており、1988年にレーガン大統領の署名により成立した。

雑感

自分とは直接関係のない人が不当な目に遭っている時、周囲がそれを良しとしている時、自分だったらどのような行動をするだろうか。
もちろん「理想と現実は違う」という便利な言葉を使うことだって出来るだろう。しかし、ラルフ・カーだってそんなことは分かっていたはずだ。それでも彼は自分が信じる理想を優先した。では、なぜ彼はそこまでして理想を追い求めたのか。その点に関しては改めて、さらに深く問いなおしたいところだ。

※1.KKKへの潜入捜査を描いた映画「ブラッククランズマン」の舞台となったのはコロラド州コロラドスプリングス。黒人差別の落書きを発見したジェイ・シルベリア中将が全校生徒の前で「他人を尊重して敬意を持って接することが出来ないなら、出ていけ」と話して話題になったのはコロラド州の空軍士官学校予備校だった。

※2.もちろん当時からラルフ・カーを称賛する声もたくさんあった。例えばカリフォルニア州の住民からは「あなたの態度で私を非常に喜ばせたのは、その思慮の深さと人間味のあるキリスト教徒らしい精神です。あなたの言葉を聴いてまさに魂が洗われました」との手紙が届いている。

※3.強制収容された日系人側の視点を得るなら「敵と呼ばれても(ジョージ・タケイ 著)」がおすすめ。グラフィックノベルだし読みやすい。

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