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塩梅という結論
皆様それぞれには人生のテーマが存在するかもしれない。「我は人に思いやりを持って生きるのだ!」とか「我が人生声の演技にささげます!」とか「とりまモテること。異性にしか興味ないんだよ」とか。はたまたそういうのはなく「明日死んでも別に問題はない」「とりあえず生きてりゃいいよ」などと何も定めずぬくぬくと生きるものもいるだろう。(ぬくぬくと生きるのも人生のテーマの一つとも言えるが)
そんなテーマは私にも存在する。皆さまなんだと思いますか。
もうはっきりいいますが『逆張り』である。内子を長年知ってる人からすればまぁ妥当な回答だと思える。
かなりの自分語りになりますが、私の行動の5~6割は大衆からの逆張り行為である。(ここでは意図している意図しているしてないは問わない。)
例をいくつかあげると、一つはニチアサをずっと見ていることだ。私は兼ねて4歳の頃からずっとニチアサを見ている。大半のものは遅くとも小学生が終わりを迎える頃には別のコンテンツに移っているが私はずっと見ていた。これはただただ好きだったから見ていたというだけなのだが、一般の同年代の子たちから見ると少数派の行動だ。
小学生高学年くらいになるとヒーロー番組を見るのは恥ずかしいなどという意味のわからないノリが罷り通るのだが、実際私もそのノリの圧を受けていたのを覚えている。高学年の時期まではただ自分の好きという気持ちを自ら捨てるのは違うと思っていた。その気持ちは変わらない。中にはこういうノリのせいで見なくなった者もいるかもしれない。そう思うとそれは非常にもったいない。私が本格的な魅力に気づきだしたのは中学生のときなのだから。
もう一つ例をあげよう。また4歳頃の時系列に戻るが、私はニチアサ見始めた時期とほぼ同時期(正確には4か月後くらい)ヤマハ音楽教室に通い始めた。理由は元は英語教室に通わせるつもりで体験に行かせたが、結果楽器の方に興味が行ってしまいその意向を親がくみ取ってくれたかららしい。(音楽教室の体験に行かせたら「次いつ行くんや」と言い出したらしい)
楽器を始めるとなると男子もそれなりにはいるがやはり女子の方が多い。
やはり少数派を生きている。
この当時はなぜ自分だけ女じゃないんだということも少し考えたこともあった。男はどんどんやめていくのだ。もちろん続けるものもいるが大半はやめているが諦めやレッスンの厳しさに負けてしまう、またほかにやりたいことがあるなど理由は様々だ。さらに小学校ではまたピアノは女がやるものという謎理論が(特に低学年)罷り通っていた。その想いは強くなる。
だが今となっては鍵盤弾けるのは誇らしいことというノリだ。懲りずに続けてみてよかったとも思っている。友人に鍵盤は続けとけばよかったと言われるくらいだ。
まだ色々例があるが私の人生は時にした逆張りにより得ているものがある。だから逆張り悪いことではない。むしろやっていくべきなのだという考えが強かった。特に高校生~昨年までは。だがこれが行き過ぎると重篤な罠にはまる。
それは人に寄り添うことを忘れるということだ。基本人とは違うことをするので分かりえない。自我が壊れることをおそれていた節があったため信頼できる人の話以外は基本聞いていなかったように思う。高校時代は一番ひどかったように思う。さらに我が強すぎたのもあって敬遠されていたのが高校時代であろう。だからはっきり言うと高校時代でも初対面の人で友達というのは私的には存在しない。ほぼ全員知人の程度だろう。
人に寄り添うというのは色々あると願いたいが、大体"共感"という2文字だろう。 やっと最近少しだけ共感力がついてきたと思っている私ですがやはり苦手である。共感するには人と同じことを又は似たような経験をしなければならない。お分かりいただけるであろうか。逆張りとは180度反対の行為だ。敢えて相手に対する順張りだ。だから友達ができなかったというわけだ。
皆様からすれば当たり前だろと思われるかもしれないがこれに人生20年目になるまで気づけなかったのが私というわけだ。なんと愚かなことだ。
ここまで読んできた方でなにか腑に落ちない方もいると思う。内子は何を求めているのか。どういう欲があるのか。それが見えてこないと思う。実をいうと『莫大な承認欲求』である。
私はある意味大衆に嫉妬している。ひねくれ者なのだ、私は。だから人と違うことをしてしまっていた。そのひねくれはまだ残っている。
ひねくれた原因は色々あると思うが小学生時代に答えはあるだろう。それ拗らせたまま高校時代に突入してどっかの悪役みたいなことになってしまったのだ。
ただそれが分かった私は今や共感を自ら求めているなどという心境変化も起こりつつある。若干以前よりは素直になったのかもしれない。気が楽になったとでも言おうか。だから人に寄り添おうとしてみてはいる。ただこれにも色々私の中で課題ではある。ここでは詳細には触れない。
さぁここで素直になりきりましょうとはならないのが私内子流なところ。それでも逆張りはするのだ。簡単に言えばいいとこ取りである。
逆張りとは大衆からみれば結構野蛮な行為である。失敗に終わることも多い。例えば私、小学校3年~高校3年までバスケットをしていたが、3P打たない主義というものを貫いてた。3Pというのは中学校から入るルールであり(正確に言うとミニバスでは3Pは存在しない)、大半の奴らは新しいもの欲しさやその場のノリで3Pをこぞって打っているような感じだったが、当時の私は2P2回決めるほうが絶対いいでしょという考えと当時の大衆へのひねくれで3P打たない主義を貫いていた。そのおかげかそれなりに2Pへの得点力は上がっていった。しかしこれも痛手になってくる。中学のときはまだよかったものの高校に入ると周りの体格がでかくなるので2P得点だけでは点数を決められなくなってくる。それでも拗らせで3P打たない主義を貫いていた。自分でも通用しなくなっているのはわかってはいたが、当時は未熟であったので方針転換ができなかった。今となってはもう少しそこに寛容になり手札の一つに持っておいてもよかったと思っている。ここは素直にいまは反省している。
この例の場合、2Pメインで取りに行くが3Pは打てるようにするというのがいいだろう。2P2回決めるほうがいいというのは感覚としては正解だったが高校時代に軌道修正できなかったのは問題点ではあった。
逆張りというものは失敗がつきものだ。でも失敗は成功のもとである。だから私は逆張りすることからは決して逃げない。そこから学んで軌道修正をすればよいのだ。極論死ななければなんでもいいのだ。そして成功すればこの『莫大な承認欲求』はそれなりに満たされる。(承認欲求の肥大化云々は一旦置いといて)実際人と差をつけないと埋もれていってしまう。それは正直御免だ。
ここで一つ付け加えると、学びは大事であるということだ。学んだことを次に活かす。
学びとは逆張りでも寄り添いでも得られる。
今思えば勉強は素直にやっていたのである意味学問には寄り添ってここまで生きていたと言えよう。私に足りなかったのは人への寄り添いだ。
これらは両方やって価値がある。今は私はそう思う。完全余談だが寄り添いばかりをやって崩れ落ちているのが今の日本人ではないだろうか。
故、逆張りと寄り添いの塩梅が大事であると私は思う。
その基準は場合によりけりだがね。judgementは己自身ですることだ。