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#5 「公の時代」書評 現代の公共性と生きる

オリンピックや数多くの芸術祭などを通じて今やアートは日本社会へと開かれつつある。しかし、果たしてアートは全ての人々に向けて開かれているのだろうか?



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『公の時代』
著者:卯城 竜太
出版社:朝日出版社
発売日:2019/09/24
サイズ:19cm/322p

本書は、現代アーティスト集団Chim↑Pomのメンバー卯城竜太と美術作家松田修がゲストを交えながら、アートにおける「公」について語った記録である。
青とピンクが混ざり合うグラデーションで飾られた表紙は、本文中でまさに語られている「公」という概念と時代の変化について想起させる。


若い世代の作家二人の対話形式がベースで進み、言い回しも口語的であるため美術書を読み慣れていない人にも読みやすい様に感じる。


現代の日本は、公権力によって民衆のための枠組みや制度が先に整備され管理される「公の時代」であると二人は語る。

しかしここで言う民衆とは全ての人々を対象にはしておらず、ある特定の「一般的」とされる層のみを想定しているのだ。
つまりそこに収まらないエクストリームな「個」人は、「一般の人々への配慮」という大義名分のもと社会から排除される。本来は全ての「個」の集合体であるべき「公」が、そこに適合しない「個」を排除しているのである。

本書では、社会運動の取り締まりなど「公」からの強い抑圧を受けた時代の「個」である大正美術と現代を対比させながら論を深めている。
「戦前」「戦後」で区別しがちな日本の近代芸術において、スポットが当たりづらい大正芸術(特に「遠眼鏡」を描いた作家・望月桂)についての詳しい記述は興味深い。


「公の時代」の問題は、今日の美術館や芸術祭の展示においても「検閲」として表象化している。
「あいちトリエンナーレ2019」内の「表現の不自由展・その後」において、公権力の検閲が決定的に可視化され大きな騒動となった事は未だ記憶に新しいだろう。

この件については本書でも取り上げられているが、8月3日は一年前「表現の不自由展・その後」の展示中止が決まった日だ。
文中で松田は「検閲記念日」と言い表していたが、この出来事が現代の公共性とアートについての問題を顕在化させたことは間違いない。

「個」なき「公」にアートはどのようにアプローチすべきだろうか。また私たちはどのように「公」と関わっていくべきか。アーティスト達の問題提起は続いていくが、それと同様に私達も思考し続けなければならない。

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先日授業で書いた書評に少々の加筆修正を行ったものです。

「書評を書く」ことを前提に本を読んだことで、文章の構成を考えながら読むのがかなり難しかったな…

しかしその分、本自体も全体の構成や順序立てについて思考がクリアな状態で読了することができたので得るものは大きかったかも。

やはり文章としてアウトプットするのも思考の整理に良いですね。
今後もこうやって書評書いていこうと思います。

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