[8] 重慶爆撃を知っていますか?

 戦時中の信濃毎日新聞は、一面に戦況が大きく載っていた。
 1938年から1943年頃まで、大々的に報じられていたのが「重慶爆撃」だった。
 数年にわたって一つの都市が跡形もなくなってしまったのではないと思うくらい、執拗に繰り返されている。
 そして1943年の新春座談会では、「容易に参らぬ重慶 屈服の方途は如何」と見出しがあり、軍の幹部に重慶はいつ降伏するのかといったような質問がぶつけられていた。

 私は重慶爆撃を知らなかった。
 戦時中、国民の誰もが注視していたできごとだったはずなのに、なぜ知らないのだろう。日本史の教科書でも手元にあるのには載っていない。
 
 『重慶大爆撃の研究』(潘洵著、岩波書店刊、2016年)が図書館で見ることができた本ではもっとも詳しい。

 著者は1965年重慶市に生まれ育った歴史研究者だが、「中日戦争終結後50周年になる直前、私は初めて重慶大爆撃の歴史に触れることが出来た」(日本語版序文より)と記している。中国でも忘れられた歴史だった。

 その理由は、中国共産党の抗日戦争歴史観の下では国民政府の抗日の歴史である重慶爆撃への抵抗が評価されえなかったこと、米英もまた無差別爆撃を行っていたため、東京裁判や国際裁判で裁かれなかったことが挙げられている。

 日本では、戦争の記憶は本土空襲と原爆、沖縄戦の「被害」が中心であり、日中戦争や太平洋戦争の戦場となった「外地」の住民の被った戦禍に注目が集まることはあまりない。学校でも学んでこなかった。

 南京が危うくなり、蒋介石の国民政府は内陸の重慶に遷都した。日本軍は空爆により国民政府や中国国民の戦争継続の意志を挫こうと200回余りに及ぶ空爆を繰り返している。被害は軍関連施設だけでなく、民間人や民間人の財産にも及んだ。

 当時の様々な事情から正確な被害の算出は困難で、「死者は19446人、負傷者は22427人、死傷者数総計は41873人」というのが確実な史料をもとにした数値で、最も少ない数字だとしている(p.161)。

 重慶には外国人のジャーナリストや教会関係者もおり、市民を巻き込んだ爆撃の悲惨さは世界に発信され、日本は非難を浴びる。重慶爆撃はその後の戦争における無差別爆撃の始まりだったという。

 想像してみる。
 日本の空襲体験で語り継がれている空襲警報に怯える日々や炎の中を逃げ惑うことが何年も続いた重慶の人たちのことを。戦争孤児は2万人に達したという(p.221)。

 日本は中国と15年戦争を戦っている。その終結は太平洋戦争と同時だけれども、毎年8月が来ると戦争といえば太平洋戦争を指し、中国との戦争のことはあまり語られない。そして戦場となった中国大陸に暮らしていた人たちの生活が戦争でどんな影響を受けたか、私はほとんど知らない。

 『難民たちの日中戦争 -戦火に奪われた日常』(芳井研一著、吉川弘文館刊、2020年)は、日本軍の進軍により難民となった人たちの実態の解明を行っている。重慶を含む各地への空爆も多くの難民を生んだ。

 今も地球の上では空爆により家や家族を失い命を落としている人がいて、多くの難民が避難の列に並ぶ。その報道を見ながら、80年も前に中国大陸をさまよっていた何万人もの避難民たちのことを考えた。

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