「知らないを好きになる」(後編) ラジオの存在意義
前編からの続きです。
インターネット時代においてラジオ局が発信において優位性を失うとすると、どこでそれに変わる優位性を持ちうるのか。
突き詰めると局(企業)としての存在意義の話になると思います。
存在意義=世の中において必要とされているかどうか。
必要とされる=「そこにしかないもの」が提供できるかどうか。
そこに来ないと得られない物、情報、そこに来ないと得られない楽しみ、それがある限り、人はそこに来ざるを得ません。インターネットも電波もそこにたどりつくための「手段」「経路」にすぎません。
昔からよい風景を楽しむ、体験するためには、その場所に行くしかない、その美味しいものを食べるためには、そのお店にいくしかありませんでした。
それはインターネット時代においても変わりません。
どんなに交通の便が悪い場所でも、その秘境温泉につかりたいとひとたび思ってしまったなら、万難廃して時間を作り、乗り物酔い体質でも山道を蛇行して進むバスに何時間も揺られるしかないのです。
「唯一性」は強いです。
お金もマンパワーも潤沢ではないラジオ局が提供できる「そこにしかないもの」とは何か。
僕は、それは「ラジオだから見つけられる世の中の人がまだ知らないこと」であり、かつ「知ると好きになるもの」だと考えています。
「知らないものを知る」というのは人の気持ちを大きく揺さぶる力があります。世の中の感動とか喜怒哀楽は、その直前まで知らない状態でいて急に知ることでより大きく発露します。
そして知らないことは無限に生まれ続けています。
「知らない」ものを見つけることは資本だけに依存しません。
テレビならテレビならでは、雑誌なら雑誌ならでは、個人なら個人ならではの「知らない」をみつけることができます。
ラジオ局は人と向き合う生業なので、その生業の中で「人に関する知らない」を見つけて、それを電波を始め色々な方法で「伝播」することができます。
ニュース報道でもエンタメでも同じです。
自局で独自に取材して得た一言、事実は唯一無二だと思います。
ラジオ局は長い歴史の中で、いくつもの人の心に残る番組や放送を生んできました。その認識がしゃべる側、作る側、聴く側に意識的、無意識的に受け継がれています。
言葉にすると「ブランド」「良いイメージ」「信頼感」「思い出」などでしょうか。
先達の人たちから受け継いだそういったものがあるおかげで、自分もラジオやってみたいと思ってもらえて様々な人が新たにラジオに関わってくれる状況がまだあります。
そしてラジオは生放送、収録で定期的に会って話すことを必然的に繰り返していくので、そこで、よりお互いへの理解、関係性が深まっていきます。
その中で、喋り手の他の媒体でのトーク、歌、お芝居、執筆、解説などでは汲み取れない「人としての魅力」をラジオマンは見つけます。それが「リスナーやファンが「知らない」その人の魅力」になります。
世の中の人が気づいていないその人の良いところを見つけて、それをちゃんと伝える、しかも気持ちよく、楽しく。それがラジオ屋冥利だと僕は思います。
例えば、とある人のことを「物の言い方が強くて苦手、嫌い」と思っているリスナーがいたとして、実は、ただ無闇にきつい言い方をしているわけではなくて、責任を持って仕事をしたい気持ちから言葉でも明確に伝えているだけだったりします。その場合、本来は「毒舌」という風に受け止められるのではなくて「仕事に真剣なんだ」という風に受け止められるように届けるべきです。そして、その仕事への真剣さはリスナーへの真面目さでもあって、聴き手への愛情にもつながる…というところまでいけると、より良いと思います。言うは易し行うは難しですが。
かなり昔の個人的な思い出話になってしまいますが、文化放送社内でラジオ聴いてた時に関ジャニ∞の横山裕くんがレコメン木曜日で喋っていてよく覚えているのが、「今、何が一番楽しいか?」みたいな話の中で、番組構成作家のナイスガイさんの家に深夜3時に押しかけて朝まで皆んなでモンハンやっている時が人生で一番楽しい瞬間だ…みたいな話をしていて、それを聴いて僕はドームを満杯にしてコンサートをしているキラキラしたスターが、なんとこじんまりしたことを楽しみにしているんだろう…と思い、なんだかとても人として好きになってしまいました。
アイドルとしての横山くんの活動はあまり知らなかったのですが、ラジオの中で出たちょっとした話で好きにさせるというのは、ラジオならではなのかもしれません。ラジオというかラジオという場、空気、質感のなせるわざというか。
彼は、何年も毎週生放送で来ている文化放送のレコメンが、そういう少し気を許せる場所になっているから、そういう話をしてくれたのだろうと思いますし、テレビだったら話さなそうだし、個人的なSNSで自ら発信する話でもない気がするので、ラジオという会話の場の中だから出た話なのだと思っています。
そういった長くやってきているラジオをという場を使って、世の中の人が知らないこと、知ると好きになることを見つけて発信していけば、ラジオの存在意義はあると僕は考えています。
あまりそういうお店に行ったことがあるわけでもないので例に出すのは相応しくないかもしれませんが、江戸時代に創業した鰻屋さんが代々継ぎ足し継ぎ足ししながら守ってきた伝統のタレの壺みたいな力がラジオにはあるように思います。
ちょっとずつ継ぎ足している間に徐々に中身は入れ替わってはいると思うのですが、結果的に、その壺の空間の中で醸成されて出てくる味は変わらない謎の深みがある…あるいは変わらない深みがあるように口にした人に感じさせる。
ある種のブランドパワーなのかもしれません。
とは言え、ブランドに甘えて、お客さんは勝手にお店に来てくれるもんだと思い込んで、ふんぞりかえって、手を抜いて作ったタレを注ぎ足し続けると、同じ壺から注いでいても当然味は落ちていって、のれん(ブランド)の力で来てくれたお客さんが実際に食べてみたらがっかりする…みたいなことになります。ラジオに限らずだと思いますが。そうならないためにはブランドを大事にしつつ、ブランド価値を落とさない、代々の後継者の緊張感、工夫が大事だと思います。
いつ食べても美味しい=面白い、発見がある、そのように作るということが引き継いでいくべき伝統で、「味」は、なんとなくこんな感じで作るものではなく、美味しいかおいしくないかちゃんと自分の舌で確認して、手を抜かず、工夫と改良を加えながら作っていくべき、後輩に伝えていくべきと思っています。
まとめると…
ラジオはインターネット時代、発信においては優位性を失う
ただし、これまでに培ってきた「ラジオという場」は価値を持っている(優位性を持っている)
生き残るために、存在意義をもつために「ラジオという場」から良質なコンテンツを生み出し続ける必要がある
良質なコンテンツとは「人についてリスナーが知らない、知ると好きになるもの」である。(「知らないを好きになる」)
プラットフォーマー、メディアとしての優位なポジションは一回失いますが、上記の「ラジオならでは」のコンテンツを積み上げていく、提供し続けていくことで改めてコンテンツの集合体、発信地としてのメディアのポジションを築く
その時に掲げる看板で何を発信しているのか、何を提供するのか示す。それが僕の中では今は「知らないを好きになる」です。
というのが僕の考えです。