生きていること by ティム・インゴルド
初インゴルド
素晴らしい!
難解だけどおもしろいm(_ _)m
あたりまえがひっくり返る体験❣️
(存在などない 縁起があるのみ)
(いのちが今私たちを生きている という驚嘆)
(創造の原点・自己などない メッシュネットがある)
(ノコギリと線描 生成され続ける 設定)
(歩くという即興)
(表面、視覚だけでは世界は観えない。
"空間"ではない"場所"へ
開けたシャーマニックな身体で
石の中へ、、、)
164 ページ
「アントが主張するのは、出来事とは、クモの網のように広範囲にわたり、行為する-アリのネットワークに分散しているエージェンシーの結果だと言うことである。
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スパイダーにとって、その網の線は、文字通り生命の線である。いわばアントが世界を異質な断片の集合体と考えるのに対し、スパイダーの世界は糸と経路がもつれたものであり、ネットワークではなくメッシュワークなのである。行動はメッシュワークの線に沿って伝導される力の相互作用から現れる。なぜなら、有機体が力の場に侵されることで生きているからである。
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私自身の立場は、「熟練した実践は、発達的に身体化された応答性を伴うと言う命題を表しているスパイダに集約される。」
308 作用者
「私たちは、自分自身を、何よりもまず、形成-済みの世界の地面の上に置かれたもろもろの対象のまわりを進んでいく観察者にすぎないものとして考えるのではなく、形成-中の-世界のもろもろの流動のなかに自分たちの存在全体でそれぞれが没入している参与者として考えなければならない。私たちがその中で見ているところの日光の中に、私たちがその中で聞いているところの雨の中に、私たちがその中で触れているところの風の中に没入している。参与とは、観察の反対でなく、観察の条件なのであり、それはちょうど、光が物を見ることの条件であり、音が物を聞くことの条件であり、感触が物を触ることの条件であるのと同じなのだ。」
353
「昔の人々はどこかではなく、あらゆるところを旅し、そこに住んでいたと聞かされたという。〜。土地を占拠しているのではなく、そこに住んでいるのである。占拠は面状であるのに対して、居住は線状である。つまり人々は陸地の表面を覆うように横切っていくのではなく、場所から場所に引かれる経路に沿って移動する。それ故、居住の観点からは、「あらゆるところ」と言うのは空間のことではない。それは人々の生の営みに沿った痕跡が撚り合わさってできたメッシュワークの全体なのである。この痕跡のうえのどこかに誰かがいる。そして、すべてのどこかは、どこかに向かう歩みの途上にあるのである。
387 散歩で物語を生きて学ぶ
「人間とそれ以外の動物に違いがあるとすれば、教授することを通して、概念的なカテゴリーという相補的相対を獲得することを促すよう、人間には、人的に前もってプログラムされているということではなく、過去から現在の生の肌理へ物語を編むという人間得意の能力があることである。人間の知識能力のカギとなるものは、そして文化のカギとなるものは、分類の力にではなく、究極的には物語ることの技巧に存在しているのである。」
396 占拠
「占拠者は、既成の世界に陣取るが、居住者はそれぞれの活動を通して進行中の世界の再生に貢献する」
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「芸術家や大工は巡行する散歩者である。人々が地表の場を遊歩するように、つくり手は課題の場を巡行し、日々の営みとともにモノを作り出す。時間に沿って流れていく、前に進む動態にこそ、モノが生成する創造性は見出される。創造性を順方向に捉える事は、その焦点がアブダクション(推論)ではなく、インプロブィゼーション(即興)にあるとみなすことである。即興することは開かれつつある世界の流線をたどることであり、終点から始動点へとこの因果の連鎖を再生することではない。」
500 編み合わせる
「「流動する過程からなる世界において、創発した形はどのように持続し得るのか」に対する答えがもたらされる。創発の瞬間を超えてなおもモノが持続するのは、素材が外力に抵抗する慣性によるのではなく、きつく編み合わされることで、素材同士が互いに及ぼしあう摩擦による反力のためである、と。」
508 余地
「絵筆と鉛筆は、それぞれ、人間の行為についての2つの考え方と、その行為の文脈についての2つの考え方を表している。1つは、責任がある社会的存在として行為することを、全体を第一に考え、全体像に貢献することによってよく言うように「社会に自分の足跡を残す」こととみなす考え方である。ここでいう社会とは、個人や自己という構成物に内向きに跳ね返ってくる制度的な枠組みで、世界を覆うものである。もうひとつは、社会の世界を、紆余曲折する糸の絡み合いや生命の道とみなす考え方である。その中では、いかなる存在にとっても、その課題は即興で道を生み出すことであり、進行することである。生はもつれて束ねられてはいるが、枠付けがない、すなわち外部の境界がないので、もつれによって区切られてはいない。したがって、自己は、世界からのリバウンドとして作り上げられておらず、成長の線に沿って継続的な生成を続けている。」
513 観察
「観察することは、何が起こっているかを眺めるように、「そこにある」ものを見ることではない。観察の目的は、観察されたものを再現することではなく、同じ生成的な動きに、観察されるものとともに参与することなのだ。」
P 520 ベルクソン
「「本当の全体」とは「不可分の連続体」であるかもしれない。だとすると、その中で切り分けられた1群のシステムは、部分では全くないことになる。それらは全体をある視点から見たときの見え方の一つ一つなのだ。
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生の課題は決して完結せず、世界が絶え間なく"世界する"途上にあると言う事は、生が半ば完結し、私たちがその世界が半ば出来上がったことを意味するものではない。また、人生は断片化され、世界はバラバラに引き裂かれ、ハンプティー・ダンプティーのように決して元どおりにできないという意味でもない。全体化に代わるものは、断片化や断絶、非連続性ではない。それはむしろ反構成的で、流動的で、過程的で、即興的なホーリズムである、そして、その鍵となる記述的実践こそ、線を描くことなのだ。」
P 540
ハロウェルは、いかなる物理的な障壁も、心と世界を分け隔てることはできないと結論づけた。「人間の皮膚を境界とする内側と外側の二分法は心理学的に妥当ではない。」15年後グレゴリベイトソンは全く同じ点を指摘した。ベイトソンによれば、心は「外にある」世界に対して個々の体の中に閉じ込められているのではなく、すべての人間が必然的に織り込まれている有機体-環境の群の関係からなるシステム全体に遍在している。彼が述べるところでは、精神世界は皮膚によって限定されていない。むしろそれは、人-有機体がまわりと関わる中で、複数の感覚の経路に沿って環境に向けてのびていくものである。あるいはさらに最近になってアンディクラークが述べたように、心は身体から漏れ出し、周囲の世界と混ざり合う道をもつ。心と世界が本質的に相互浸透していること、または混ざり合っているというこうした理解を指すものとして、私は「社会的」という言葉を用いる。」