パット・ドーラン「同じような学校が身近にないことを心から願っている」 (Pat Dolan, "I Sure Hope the School around the Corner is Not the Same")
エンパシーに関する社会研究プログラムを長年指導してきたが、私の考えとかエンパシーや思いやりに関する私の基本的な理解は、私の子供時代、特に学校での経験に由来しているというのは皮肉なことかもしれない。私は子供時代、恵まれていなかった面もあるし、恵まれていた面もある。まず恵まれていなかった面。私はダブリンの中心に住む大家族の一番下の子供として生まれたが、悲しいことに私の父は職場の事故で私が7か月の時に亡くなった。そのため私の母と兄や姉たちは大変な思いをした。クリスチャン・ブラザーズ学校(実際にはクリスチャンでも"ブラザーズ"のようでもないのだが)に通っている間、物理的な暴力や心の暴力を毎日のように受けたり目撃していた。左利きであったこともよくなかった。アイルランドの学校において過去に行き過ぎた体罰があったことが、いまだに私の世代の傷となっていたりアイルランドの社会史における「汚点」になっている。けれども、この文章では、私がどこでどのようなことを経験し目撃したかを詳しく書くことはしない(別の機会に書くかもしれないが)。加害者であった無能な教員や"ブラザー"たちのためにこのスペースを割くつもりはない。ただ、彼らが自制の利かない大人たちで、時に理由もなく子供たちを傷つけ、子供たちを見下したり軽視していたと書くだけで十分だ。
ここからは恵まれていた面について書こう。子供時代に逆境を乗り越え打たれ強くなるためには、危険から守ってくれるものが日々必要となる。学校での私にとっては、3つのものが私を守ってくれた。正直、その3つがなければ今の私はなかったかもしれない。1つめは、私には父親の記憶がないけれど、父の不在をあらゆる面で補ってくれる素晴らしい母親がいて、現実の生活におけるエンパシーとは何かを身をもって示してくれた。他者のことを気にかけることと、他者のために思いやることとは違う。私の母は、間違いなく私のために思いやってくれていた。愛情をもって私が大切な存在であることを伝えてくれただけでなく、文字通り私を守るために学校に来て、暴力をふるう者(特に一人の無能な教員)に「立ち向かって」くれた。彼女は私にとって間違いなく正義の味方だった!
恵まれていた2つめの点は、学校に兄や姉がいて私のことを気にかけてくれたこと。私のすぐ上の兄のマイケル(1年と少しだけ年上の「アイルランドの双子」、つまり年子の兄)は同じ時期に同じ学校に通い、同じような経験をしていた。振り返ってみると、兄は単に私を守り世話を焼いてくれただけでない。ただ「私のことを考えてくれた」だけでなく、「私のことを私と共に考えてくれ」、そのことが私にとってとても救いであった。もちろん私には、ほかの若い人たちと同じように、学校に意地の悪い仲間だけでなく友達もいたけれど、マイケルと私は切っても切り離せない兄弟であり友達であった(それは今も続いている)。当時学校が容認するだけでなく助長していた有害な環境の中で、私たちは助け合っていた。だから、毎日決まって一緒に家を出てすぐ近くの学校まで歩いて通い、昼休みには学校の門で待ち合わせ、学校が終われば一緒に家に帰った。それは、時には以心伝心で伝わる助け合いの気持ちだった。私にとって兄の支えはとても大きかったため、兄が卒業し兄の支えを得られなくなったとき、私も人よりも早く学校を去ることにしたのだ。
恵まれていた3つめの点は、とても大事なことで、すべての教員が意地悪というわけではなく人間味のある先生もいる、トンネルの先には光があるかもしれないということを、すぐに悟ったことだ。P.L.という私にとって特に大事な先生は、人間味も温かみもない砂漠の中のオアシスのような存在だった。その先生は英語の先生だったけれども、親切であるだけでなく、私やほかの生徒に暴力や権威を振りかざすことは一度もなかったし、心から私や私の学習に関心を持ってくれた。私がいまだに覚えている彼のエンパシーと理解にかかわる思い出が2つある。1つは、長髪で学校に来ることが「悪質な」学則違反とみなされ罰として暴力が振るわれたことに関連して。なぜかはいまだに分からないけれど、1970年代には長髪はおしゃれだけれども許されない行為とみなされていた。この校則や校則違反に対して同僚の教員が科す野蛮な罰についてP.L.先生ができることは限られていたと思うけれど、私がボブ・ディランのファンであることにP.L.先生が興味を持ってくれたことを覚えている。先生もディランのファンで、アルバム「ブロンド・オン・ブロンド」のディランの髪型がとてもかっこいいよねと話してくれた。これは、ばかばかしい校則に反抗し私やほかの生徒を応援してくれていることをこっそり示す彼なりの方法だったのだと思う。それから、同じ時期の夏のある日曜の午後、マイケルと私はGAA(訳者注:ゲーリック・フットボール)の試合のため来ていたコーク公園で偶然P.L.先生に会った。彼は、やさしくあいさつをしてくれた。学校のことは話さなかったけれど、その日のダブリン(訳者注:ゲーリック・フットボールのチーム)の出来について私たちがどう思うか、熱心に聞いてくれた。この2つの出来事はとても些細だけれども相手に対する尊重を示す行為であり、エンパシーの基礎となるものであるように私には思える。
さて、子供時代に支えてくれる家族がいたことと、学校に少なくとも1人は思いやりのある先生がいたことで、「他者」のことを単に「悪人」ではなくそれぞれの人生で解決できない問題を抱えている仲間として(問題を抱えていなければ悪いことをすることもなかったであろう)理解し折り合いをつけることが今はできるようになったと言える。彼らのことを許すのはやはり簡単ではないけれど。そして、私も含めて常に完璧な人間などいないと知っているから言える。この本のほかの文章を読めば、これがエンパシーについての私たちの共通した考えであることが分かると思う。私はこの本の執筆者たちから多くを学んだし、また一緒に本を編集した以下の人たちからも学びを得た。まずマーク(・ブレナン)は彼を指導した先生たちを理解するための対処法を雄弁に語っているし、ギリアン(・ブラウン)は他者(彼のお母さん)の励ましを支えにすることで「高く飛びたつ」ことができると思い出させてくれる。またキリアン(・マーフィー)はエンパシーについてとても分かりやすく書いている。エンパシーは常に能動的であるべきで受け身のものではない。偉大な故レナード・コーエン(訳者注:カナダのシンガーソングライター)が言っているように「ヒビのないものはない。だからこそ日が入るのだ」と。
※訳者注:パット・ドーランはゴールウェイ大学教授でエンパシー・プロジェクトの主宰者。
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