三島由紀夫と、酔っ払い先生
私が卒業した小中学校は、各学年が約20人足らずで、1クラスずつしかない小規模校でした。しかも小学校と中学校が同じ校舎・校庭、同じ校長先生でした。まさに小中一貫校の先取りのようなものでした。学校行事も小中合同でした。
私が中学1年生になった時に、中学だけの校長先生が赴任してきたことを覚えています。そしてその時になって、職員室も小学と中学で、別の職員室になりました。それまでは1つの職員室に、小中の先生方が一緒にいました。
小学6年生の時の担任は、中年の男性教師でしたが、授業など教育には熱意あふれる先生でしたが、玉に瑕(きず=欠点)が1つありました。
当時家庭訪問があり、先生が1日4〜5軒の家庭を回るのですが、のんびりした農村地帯にある学校だったので、家庭訪問の先生に、お茶ばかりでなくお酒も出す家庭もありました。その日の予定の家庭訪問を終えると、最後の家で飲み始め、今度は逆戻りの家庭訪問が始まります。
ですから、最初はシラフの先生の真面目な家庭訪問でしたが、少し時間が経った、2回目の家庭訪問では、ヘベレケの家庭訪問になるのでした。私は、人って酒でこんなに変わってしまうのかと、思ったことを思い出します。
その先生が、11月のある日の休み時間だったか昼休みの時間に、いつもはとても冷静な先生でしたが、大慌てで教室に駆け込んできたことがありました。
「大変だ、大変だ、三島由紀夫が自衛隊で〜をした」と叫びながら、かなり興奮して、状況を私たちに説明をし始めました。おそらく職員室でテレビを見ていたのでしょう。
先生がこんなに興奮しているのだがら、よほど大変なことが起こっているに違いないと感じたのでした。
その時は、三島由紀夫がどんな人物か分からなかったのですが、家に帰ってテレビのニュース映像を見て、びっくりしました。この人なら知っている、と思ったのです。
三島事件が起きたのが1970(昭和45)年ですが、その2年前の1968(昭和43)年、川端康成が日本人で初めてノーベル文学賞を受賞しました。
私が使っていた国語辞典の監修者に、川端康成の名前があったので、川端がノーベル賞受賞というニュースは、興味を持って見ていました。その時に川端と並んでスポーツ刈りの若い男性がテレビに度々写っていたので、この男は何者なのだろうと印象に残っていたのです。
ノーベル賞受賞の翌日に、川端と三島は対談を鎌倉の川端の自宅でしているということが、大人になってから分かりました。
当時、そのスポーツ刈りの男がこんな大事件を起したということに、小学生ながらショックを受けたことを覚えています。中学生になって、川端と三島の作品を読み始めましたが、川端の小説はとても気に入って多くの作品を読みましたが、三島作品は中学生の私には難しかったのでしょうか、入り込むことができませんでした。
今でも、三島由紀夫を思うとき、どういうわけか、私は酔っ払い先生が田舎道をとぼとぼと歩いて帰る姿を思い出すのです。
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