正月の思い出 お姉さんたちのグループサウンズ
幼い頃のお正月といえば、私は父と親戚の家に出かけることになっていた。
私の母が長女で2人姉妹だったので、父はわが家に婿養子に来た。そのため、父は正月はいつも私を連れて実家に“お里帰り“をした。父のような高度成長期の労働者は、1年のうち日曜以外は、正月三ヶ日くらいしか休まなかった。
正月の朝は忙しかった。一張羅の洋服を着せられて、駅に向かった。ある時は、親戚からもらったトレンチコートを着せられた。トレンチコートはカッコよかったはずだが、いなか坊主の私には不釣り合いな気がして、どうしてもイヤだった。たぶん、2、3回しか着なかったと思う。とても学校に着て行ける代物ではなかった。
駅で列車を待つわけですが、当時は蒸気機関車が普通に走っていた。プラットフォームで汽車を待っていると、遠くから黒い煙を噴き上げながら、黒い塊が近づいて来た。
幼い私には、蒸気機関車はとても怖い存在だった。大人になる頃には、ほとんど消えてしまったので、その後は恐怖心を覚えることはなかったが、昔のSLの映像を見ると、今でもその恐怖心が少しだけよみがえってくる。
父の実家に行く前に、父の妹(私には叔母)の家に寄ることになっていた。この叔母夫婦には、娘が4人いた。私には従姉妹のお姉さんたちである。
叔父と父は、酒好きの仲良しだったので、酒盛りが始まると父が、「お姉さんたちの部屋に遊びに行きなさい」と私に促す。
お姉さんたち4人の部屋は、私にはとても華やかだった。部屋には当時の芸能人のポスターが何枚も貼ってある。おそらく、「明星」などの芸能情報雑誌の付録だったのでしょう。
こたつには、定番のみかんやお菓子があった。お姉さんたちの話題は、前日大晦日の紅白歌合戦のことである。“紅白“全盛の頃だった。残念ながら私は、その当時、普段は夜8時には寝ることにしていた。でも紅白については、番組の最初の方を見ることを許されていた。
そのため、お姉さんたちが話題にする出場歌手の衣装や振り付けの話には、ついていけなかった。でも四人姉妹の中に入り込んだ男の子には、親切にしてくれた。
ある時、インスタントコーヒーを勧められた。私はそれまでコーヒーというものを飲んだことがなかった。コーヒーカップに、自分でスプーンを使って入れなさいと言われた。何杯入れればいいのか聞けばよかったが、私は聞かずに3杯たっぷり入れてしまった。クリープや砂糖も自分で入れたが、お湯を入れて出来上がった初コーヒーは、ものすごい味だった。文字通りの苦いコーヒー体験だった。
夕方には、叔父叔母の家を辞して、父の実家に向かう。父の兄一家が稲作農家を営んでいた。
実家は最寄り駅から徒歩15分くらいであった。父はいつも近道を通って帰った。近道を通ると10分足らずで行けるのだった。でも近道は線路だったのです。二人でトボトボ線路を歩いて行く。線路はとても歩きづらいので、私は脇の小道を歩くことが多かった。当時も今も、線路は歩いてはいけない所だが、私には貴重な体験だった。
叔父夫婦の子どもたちも、これまた四人姉妹だった。ここでも、私はお姉さんたちの部屋に遊びに行かされた。
ある年のお姉さん部屋には、人気絶頂期のグループサウンズ・タイガースのポスターが、隙間がないくらいに何枚も貼られていた。私は、ジュリーを始めとするメンバーたちのアップの笑顔満載のポスターに度肝を抜かれた。その前の年は、こんなではなかったと私は冷静に思った。
それからは、お姉さんたちに雑誌・明星や平凡を見てと勧められ、ザ・タイガースやザ・テンプターズのメンバーについての説明を延々としてもらった。さらに、じゃ、タイガースのメンバーの中では、誰が一番かっこいい? と聞かれたりした。私は、ジュリー以外は、ほとんど区別ができないくらいに関心がなかった。
そのあとは、レコードをかけて、GS曲のオンパレードであった。お姉さんたちは、ずっと踊り通しだった。私も仕方なく盆踊りをまねして覚えるように、曲に合わせて踊ってみた。踊っているうちに、5人で踊っているとなんとなく一体感が生まれ、楽しくなってきたことを覚えている。
壁いっぱいに貼っているタイガースのメンバーに囲まれて、ゴーゴーのような腰を振る踊りをしたわけです。まさに“昭和“でした。
合計8人の従姉妹たちのうち、2人は鬼籍に入り、あとはみな孫が何人もいる歳になってしまいました。今でも、たまに会うと私のことを「○○ちゃん」と呼んでくれる貴重な存在です。