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おばあちゃんの最後の里帰り ぼた餅、盆提灯、お蚕さま
私が小学校3年か4年のとき、祖母は私を連れて、実家に里帰りをした。とても暑い8月の旧盆の頃だった。我が家では、祖母の実家のことを、そこの地名から「中里」(仮称)と呼んでいた。結果的には私が中里の家に行くのは、最初で最後となった。
2時間に1本ぐらいしか走っていないバスで、30分以上揺られて、隣り町のバス停で降りた。中里の家までは、そこからさらに30分ほど歩かなくてはならなかった。
祖母は70歳を過ぎていたが、まだ元気だったので、私と一緒に両側に田んぼが広がる田舎道を歩いた。それが自分の実家まで行く唯一の方法だったので、祖母にとっては当たり前のことだったのだろう。
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その道すがら、私は祖母の傘を持って歩いていた。その傘は折りたたみ式だった。おそらく、重くかさばる雨傘を持ち歩くのを避けたかったからだろう。
私はおもしろがって、歩きながら折りたたみ傘を開いたり、閉じて畳んだりを繰り返していた。祖母は、そんなことやっていると、こわれるよと言って、日傘がわりに傘を差したのである。雨傘が日傘の代わりになるんだと、私は妙に納得した。
調べてみると、日本に折りたたみ式の傘が普及したのは、1960〜70年代にかけてだということだ。だから、わりと初期の頃の折り畳み傘だったということになる。
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中里の家は、小さな里山にある“ポツンと一軒家“だった。子どもながらに、自分の家もかなり田舎にあると思っていたが、中里はさらに田舎だった。小高い里山の中腹に、高い木々に囲まれて、大きな農家が堂々と建っていた。
残念ながら、中里には私の遊び相手になるような年ごろの子どもはいなかった。祖母の両親は、すでに亡くなっていたが、祖母の兄にあたる人が農家を継いでいた。そのおじいさんは、かなりの高齢だったためか、ほとんど動かず、ほとんど口もきかずにじっとしていたので、私にはどこか不気味な感じがした。
それとは対象的に、おばあさん(祖母の義姉)は、私のことを孫のようにとても歓迎してくれた。その息子のお嫁さんと二人で、たくさんの料理を出してくれた。どういうわけか、よそのうちの料理は美味しく感じられた。
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とりわけ美味しいと私の記憶に残ったのが、大きな“ぼた餅“である。ソフトボールくらいに大きな“ぼた餅“のことは、家に帰ってから、私は親にさかんに報告して、同じような“ぼた餅“を作ってくれと何度もせがんだことを、後々まで母親に揶揄された。
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もうひとつ、印象に残っていることが、蚊帳をつって寝たことだった。自分の家でも、蚊帳の中に寝たことはあったが、その頃にはどいうわけか、やめていた。その大広間は、縁側につながっていて、障子戸はあったと思うが、夜は開けたままだったので、ホタルが飛びかっていて、うす青い光が不規則な曲線を描いて、暗闇に舞っていた。
蚊帳のなかに 放ちし蛍 夕されば
おのれ光りて 飛びそめにけり
その大広間は、仏壇がある広い座敷だった。盆の提灯が2つぐらい仏壇の近くに置いてあった。
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盆提灯のことを意識して見るのは初めてだったので、妙にきれいなハスの花が浮かびあがる光景は蚊帳で寝たこととともに、中里の思い出として残っている。
次の日に、中里の家の2階・3階に上がった。中里では、養蚕をかなり大規模にやっていた。2階と3階はすべて“お蚕さま“のためにあった。桑の葉が隙間なく引き詰められた蚕棚が並んだ光景は、壮観だった。近づくと、“カサカサ“と音をたてて必死でお蚕さまが桑の葉を食べていた。
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私の家でも、私がもっと幼い頃には、お蚕さまを小規模ではあるが飼っていたことは覚えている。朝早く祖母や母が桑の葉を桑畑から集めてきて、お蚕さまにあげていたが、中里に行った頃には、止めていた。
後年、実家を取り壊すために家財道具の片付けをしていたときに、学校の卒業証書よりも大きくて立派な賞状が1つ見つかった。それは優良な蚕を生産したということで、農協から表彰されたものだった。日付は昭和27年頃だったと思う。
たった一泊しかしなかった、祖母の実家だったが、断片的に覚えていることは、今となっては“昭和“であるが、貴重な体験だった。
その後、中里の息子さんは、祖母の葬式や新盆などに、我が家に来たことがあった。その時も、ぼた餅のことが話題にのぼった。ただ、それからは我が家と中里の家とは、交流がなくなった。
ただ、それから何十年も経ってからのことだが、私の職場の同僚と昼休みに世間話をしていた時に、お互い同郷だということがわかった。さらに調べてみると、彼女の実家と中里の家が隣りどうしだということが判明した。隣りといっても、ポツンと一軒家なので、100m近く離れているお隣りだということが、Google Mapで分かった。
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今回の記事を書いていて思ったことですが、みなさん、祖母の旧姓が何か、わかりますか? 少なくとも父方と母方の祖母がいますから、2人とも旧姓がわかっている、という人はきわめて少ないのではないでしょうか。
一世代前のこと(親のこと)は、だいたい分かっていても、二世代前のことになると、かなりあやしくなる。だから、四世代、五世代前のことなんかは、名家や大きな商家でもない限り、記録がなく伝わっていないはずである。だから、純粋な〇〇人、生粋の〇〇っ子、などどいうのは、あまり意味がないことだと私はかねがね思っている。
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