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Netflixの是枝版「阿修羅のごとく」は、必見!  向田、是枝、小津が“化学反応“している

脚本家・向田邦子(1929 - 1981年)の「阿修羅のごとく」が、Netflixで、2025年1月9日から独占配信されている。「万引き家族」「怪物」「海町diary」の是枝裕和監督によって、リメイクされた。

1  何回もリメイクされる「阿修羅のごとく」

リメイクといっても、1979年と1980年に、「NHK土曜ドラマ」として放映されたものを、かなり忠実になぞっている。というのは、是枝監督は、最初、できるだけオリジナル脚本のままで撮ろうとしたが、向田邦子の妹・向田和子さんにお会いして、お好きなように書きかえていただいて結構です、と許可をいただいたので、オリジナルの良さを残しつつ、時代に合わせながら自分の独自色を織り込むことにした。その結果、見事に向田邦子と是枝裕和が融合した、最近では稀にみる見応えのあるドラマに仕上がっている。

時代設定はNHK版が放映された当時の1979年のままになっているが、昭和50年代の雰囲気が、細かいところにまで感じられる。プルタブが缶から離れてしまう缶コーヒーとか、居間のステレオやブラウン管テレビなど、忘れかけていたことを思い出させてくれる。

NHK版の四姉妹を演じたのは、加藤治子、八千草薫、いしだあゆみ、風吹ジュンでした。演出は和田勉だった。

「阿修羅のごとく」は、その後2003年に東宝映画として、監督・森田芳光、脚本・筒井ともみで映画化されている。大竹しのぶ、黒木瞳、深津絵里、深田恭子が四姉妹役を演じた。

今回の是枝版では、長女の綱子を宮沢りえ、次女・巻子が尾野真千子、三女・滝子に蒼井優、四女・咲子を広瀬すずが演じた。今の時代、これ以上のキャスティングはあり得ない、というほどの豪華な顔ぶれだ。

プロデューサーは、向田作品にかかわったこともあり、この企画を考えた八木康夫である。是枝監督にオファーしたら、二つ返事で快諾してもらったという。是枝監督も、自分の主宰するワークショップで、「阿修羅のごとく」を材料にセミナーを開いている。

舞台化は、少なくとも3回はされていて、最近では2022年に劇団大人計画が木野花の演出で舞台化した。

これだけリメイクされているということは、それだけ、「阿修羅のごとく」が魅力がある脚本だということを物語っていると言えよう。

2  家族崩壊のドラマ、山田太一の「岸辺のアルバム」

初老の男(NHK版で佐分利信、Netflix版で國村隼)が、妻子ある女と付き合っているということが発覚したことがきっかけで、ドラマが始まる。このように一見、真面目そうな人が不倫をはたらくというのは、山田太一脚本の「岸辺のアルバム」(1977年)と共通するところがある。

貞淑なサラリーマンの主婦(八千草薫)が、ある日、見知らぬ男(竹脇無我)から電話がかかってきたことが、キッカケで不倫をする、という設定である。

山田太一に対抗意識を持っていた、脚本家の倉本聰は、北海道の駐在さんが主人公の「うちのホンカン」というドラマで八千草薫に出てもらっているが、「岸辺のアルバム」で八千草が不倫をするドラマを見て、山田太一にしてやられた、と述懐している。

一見、幸せそうな家族に見えても、一人ひとりにはそれぞれ闇の部分を抱えていて、実は、家族が崩壊しそうな瀬戸際に立っている、ということが、阿修羅の四姉妹にも通じることがあると思う。

3  四姉妹だと、どんなことになる?

四姉妹は、それぞれが家族を営んでいる。竹沢家という共通の家庭環境から大人になった、別人格の四姉妹は、時には、きょうだいを心配をしたり思いやりを見せたり、またある時には、ライバル意識むき出しの行動をとったり、辛辣な批判を面と向かって言ったりと、血縁でなければできないようなエピソードが、ドラマの中で繰り返される。

ドラマの前半では、未亡人の長女・綱子(宮沢りえ)が料亭を営む男(内野聖陽)と不倫することに、サラリーマンの主婦、次女・巻子(尾野真千子)が、なんとやめさせようと画策しながら、不倫する父のことにも、きょうだいの協力を得て対応しようとする。

一方、後半では、頑なに自分の殻に閉じこもっていて、自己表現が苦手な図書館職員の三女・滝子(蒼井優)が、興信所職員の男(松田龍平)と知り合って、ぎこちない交際を経て、やがて結ばれていくのである。

四女・咲子(広瀬すず)が、喫茶店のウエイトレスから、ボクサーの妻に成りあがり、結果的には、試合の後に植物人間になりかかった夫の看病を見ることになる。

特に咲子は、姉・滝子に対する対抗意識が強くて、なんとか見返してやろうと、チャンピオンの妻として、成りあがり的な振る舞いを見せていく。彼女は、きょうだいというのは、普段はお互い非難しあったり、ケンカをしたりするが、いざ窮地に立ったきょうだいを見ると、気になって手を差し伸べずにはいられなく存在だ、というような趣旨のセリフを、ドラマの終盤で言う。

4  是枝映画に小津安二郎の影響はあるか

是枝監督は、世間では「小津の孫」といわれることがあるが、本人は、成瀬巳喜男監督の作品の方が好きだと述べている。ただ小津作品については、詳細な研究をしているはずで、かなり造形の深い、監督ならではの批評をしている。

是枝は小津を尊敬はしているし、影響は受けているかもしれないが、映画のスタイルもアプローチも全く違うと言っている。

向田邦子、是枝裕和、小津安二郎の三人を考えてみよう。三人は、共通項として「家族」ということに、こだわって表現してきたと言えるでしょう。そのアプローチ、こだわりかた、描き方は三者三様である。

5  向田邦子と小津安二郎

向田邦子は、脚本家になる前に、映画雑誌「映画ストーリー」の編集部で働いていた。主にアメリカ映画を見尽くしていたが、小津映画をどの程度見ていたかは、定かではない。向田が脚本家として頭角を表すのは、1960年代前半からであるので、「秋日和」(1960)や遺作の「秋刀魚の味」(1962)あたりは見た可能性は十分にある。

ただ、その時代、ヌーベルバーグの登場などもあって、小津はもう過去の人だ、などと冷ややかな見方をしている若者もいたので、向田がどの程度小津を意識していたかは不明である。

「阿修羅のごとく」の中で描かれる四姉妹の、おしゃべり、からみ合い、闘い、つながりを通して、向田が言いたかったのは、きょうだいというのは、ある時は、憎たらしくもあり、またあるときは、愛おしくもあるのだ。そして、お互いに知られたくないが、生きるうえでの闇のようなものを秘めているのだ、ということだろう。

でも、結局はきょうだいがいちばんホッとする存在だということが、ドラマ全体から読み取れる。

6  小津は家族を、どう描いたか

小津作品では、練りに練られ、削ぎ落とされたセリフが、同じリズムで、繰り返されるが、それが少しずつ変化して、あってないようなストーリーが、少しずつ展開していく。

小津が映画を通して家族をどう表現してきたかというと、家族はいずれ、離れ離れになっていくのだ、子どもは親を見送り、親は子どもたちに期待はするが、思ったほど子どもは期待に応えてくれない、人はみな、大人になると自分の生活がいちばん大事になってくる、いまの私たちは幸せな方ではないか、というようなことか。

小津は、家族をかなり冷ややかに、突き放したような、ニヒルな見方をしているような気がする。

小津映画では、家族同士で声を張り上げたり、いがみ合ったり、ケンカをしたりということは、ほとんどない。ただ、お互い言いたい本音は別にあるけど、面と向かってそれを家族には言えないので、他人にそれをポロッともらしたりする。

7  これは、小津へのオマージュか?

是枝版「阿修羅のごとく」では、未亡人の長女(宮沢りえ)のお見合いの場として、能鑑賞のシーンが登場する。ただ、長女は見合いの場を設けてくれた妹(尾野真千子)に、無断で客席を離れてしまいまい、小津映画「お茶漬けの味」の津島恵子と同じ行動をとっている。

また、母親(松坂慶子)が亡くなってすぐに、四姉妹が形見分けについて話をする場面では、高価な着物を誰がもらうかということで揉めている。これは、小津の「東京物語」で長女の杉村春子が、母親の葬式の精進落としの場で、母親の紡ぎの着物を私が形見としてもらう、と宣言する場面がある。後から、次女(香川京子)が、亡くなってすぐに形見分けのことを話しするなんて、とグチを義理の姉(原節子)に吐露する。

是枝版第6話では、咲子の夫のボクサー(藤原季節)が、自宅のドアに、みかんを何回もぶつけて、母親がやっている騒々しい宗教の集会をやめさせようとする場面があるが、小津作品「戸田家の姉妹」で、山村聰が、壁に向かってグラスを投げつけるシーンを思い出してしまった。

8  是枝裕和と樹木希林

是枝は、2015年4月の樹木希林との対談の中で、「もし僕が『阿修羅のごとく』をやるとしたら誰でできるかと、ときどき考える」という話をしている。かなり以前から「阿修羅のごとく」を撮りたいと考えていたようだ。

また、あらめて、向田の脚本を読み直してみて、小津的な価値観を見つけたとも述べている。もしかすると、彼は、母親の役を樹木希林に演じてほしいと考えていたのかもしれない。彼女が演じる母親も、みてみたかったな。松坂慶子よりも人間の怨念のようなものが、ストレートに演じられたかもしれない。

9  広瀬すずは、大きな一歩を踏み出した

最後に、広瀬すずは、大女優の道を歩み始めたのではないか。彼女は撮影現場には、すべて完璧にセリフが入った状態で臨んでいた、という。現場では台本は見直さない。昔の女優だったら、当たり前のことだろう。

是枝監督も、広瀬には改めて惚れ込んだらしい。ドラマの後半で、彼女はもがきながらも、人間として大きくなろうとしている生きざまを見事に演じている。

10  女は阿修羅なのか

4人の女優は甲乙つけがたく、それぞれの個性を発揮しつつ、“阿修羅ぶり“を、画面いっぱいに発散している。自信を持って、見て後悔することはない作品だと、言うことができる。

是枝監督は、撮っていて楽しむことができたし、四姉妹の女優さんたちも演じることを楽しんでいるようでしたと、述べている。

キャスト・スタッフが楽しんで撮った作品は、見る人を惹きつける力が宿る、と自信たっぷりに発言したとのことだ。

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