ロンドン ナショナル・ギャラリーの名画散歩 その2
ロンドンのナショナル・ギャラリーの名画散歩の続きです。6つの絵画を見てまわりましょう。
名画とは関係ない話ですが、今回のナショナル・ギャラリーで名画に囲まれて、幸せな時を過ごしたのですが、一つだけ気になったことがありました。
有名な絵画の前で、観光ガイドが10人以上のグループを引き連れてマイクを使って、絵の解説をしているのです。子どもも何人か含まれているのですが、当然子どもは説明など聞いていないのです。さらに、そのグループの一部の人たちは、名画の前に並んで、絵を背景にして写真を取り合っているのです。
まわりの人は、知らんぷりをしていましたが、ちょっと違和感がありました。
1 アルノルフィーニ夫妻像 (ヤン・ファン・エイク) 1434年
「アルノルフィーニ夫妻像」は、600年近くも前の油絵の傑作です。油彩画としては、最も初期のものとなります。ヤン・ファン・エイクは、フランドル地方(今のベルギー・オランダの一部)の宮廷画家で、油彩画の創始者と言われています。
女性は、妊娠しているのかなとも見えますが、そうではないという説の方が一般的です。このようなガウンを女性が着るのは、当時としては一般的だったのです。
説明にあるように、二人はブルージュ(ベルギー)の宮廷に仕えて、生地を扱う商売をしていたイタリア人 ジョバンニ・アルノルフィーニとその妻です。この部屋は、ベッドがあるから寝室だと思ってしまいますが、当時は、客間にベッドがあってそこをソファとして使うことが行われていたそうです。
この絵全体に、さまざまな物が散りばめられています。ベッド、ろうそくが1本だけ灯っているシャンデリア、丸い凸面鏡、二人の足元にいる犬、左下の木靴など、それぞれに何かしらの意味があると言われています。
凸面鏡には、夫婦の後ろ姿が映っていて、部屋の入口に立つ二人の男性も描かれてます。この二人の男のうち青い服を着ている方が、ヤン・ファン・エイクだとされています。もう一人は彼の弟子だそうです。
二人の男は、夫妻の婚約か結婚の立会人という説があります。というのも、凸面鏡のかかっている壁のすぐ上に、「ヤン・ファン・エイク ここにありき 1434」とラテン語で書かれているからです。これは絵画による「結婚証明書」だという人もいます。
アルノルフィーニ夫妻の足元の真ん中に、犬を配置しているのは、忠実や貞節を表している、と広く解釈されています。
私は、今でいう“できちゃった婚”が昔もあったんだね、などと下品なことを思ってしまいます。でも、婚約か結婚が決まって、記念に二人の姿を有名肖像画家に描いてもらおうと、商人ジョバンニ・アルノルフィーニが考えて、ファン・エイクに依頼したのでしょう。現在でも、結婚に写真は付きものです。
いずれにせよ、おめでたい絵であることは確かです。依頼されたファン・エイクは、82,2cm×60cmという小さい絵の中に、様々な意味を持つアイテムを配置しながら、依頼主夫妻とその部屋を、本格的な油絵で描いたわけです。
夫妻の手の描き方も何らかの意味があるのでしょう。ちょうど、2つの手の向こうには、ソファの装飾が上と下にくるように描かれています。私が根拠もなしに推測するに、二人は永遠の愛を誓い合っているのかもしれません。
王族や貴族ではなく、裕福な商人とはいえ、庶民の結婚を記録した初めての肖像画とされています。
では、見出し写真の絵にいきましょう。
2 アルドブランディーニの聖母 (ティツィアーノ・ヴェチェッリオ) 1532年頃
聖母がまとっている鮮やかな青から、私は目が離せなくなりました。色彩の魔術師と呼ばれている、ティツィアーノ・ヴェチェッリオの作品です。イタリアのルネサンス期を代表する画家です。500年以上経っていても、この鮮やかさを保っているのは驚きです。
この絵には、『聖母子と幼児の洗礼者聖ヨハネ、女性の聖人あるいは寄進者』(The Virgin and Child with the Infant Saint John and a Female Saint or Donor)という別名もあります。
鮮やかな青色のローブをまとった聖母マリア、幼子イエス、そして、ひざまづいてイエスを優しく見つめる黄色いドレスの女性、聖母マリアに花と果物を差し出しているは、幼児の洗礼者聖ヨハネです。4人が絵の中心に描かれ、右上の遠景にケルビムという天使が一人、その下には羊飼いと牛追いが二人配置されています。
黄色いローブの女性は、聖女か寄進者のどちらか、ということになっています。その眼差しは優しく幼子イエスに注がれていますが、両手で抱いていると見えますが、絵には彼女の手は描かれていません。
聖母マリアの左足が見えています。今でもありそうなサンダルを履いています。マニュキアはしていません。
ところで、この絵のタイトルにある「アルドブランディーニ」とは何か、という疑問が湧きました。人名か地名かそれとも別なものか。結論から言うと、イタリアの名門貴族にアルドブランディー二家があるそうで、その貴族が長くこの絵を所蔵していたということでした。今でもその末裔が、所有する宮殿などの維持管理を担っているそうです。
3 アニエールの水浴 (ジョルジュ・スーラ) 1884年
ジョルジュ・スーラ(1859 - 1891)は、19世紀後半のフランスを代表する画家で、彼の点描画法(様々な色の斑点の組合せで描く技法)が、新印象派を確立したと言われています。
この作品は、スーラが24歳で取り組んだ最初の大作ですが、サロンに応募するも落選でした。スーラの作品で最も有名なのは、シカゴ美術館が所蔵する「グランド・ジャット島の日曜日の午後」だと思います。
この2つの作品とも休日の人々の過ごし方をモチーフにしています。静止画のような絵全体から、気だるくのんびりした雰囲気が伝わってきます。
でも、「アニエールの水浴」をよくみてみると、不思議なことがたくさんあります。まず、登場人物がみんな帽子を深くかぶり、顔が見えません。そしてほとんどが川面を眺めて、物思いにふけっているように見えます。左下の茶色い犬まで、人と同じ方向を向いています。
遠くにある工場群の煙突が7本が見えていて、その1本から煙がたなびき、渡し船やボートを漕いでいる人たちもいるのですが、時が止まったような印象を受けます。
遠景では、蒸気機関車が鉄橋を通り、煙突が7本も並ぶ工場を描き、フランスの産業革命は、英国より遅れていたとはいえ、街の工業化が進んでいることを示しています。そのような背景のなか、川べりで休日の水浴を楽しむ庶民を物憂げな雰囲気に描いています。
実は、この人々が眺めている方向には、「グランドジャット島の日曜日の午後」のグランドジャット島があるのです。この島で休日を過ごしている人たちは、着飾っていて、裕福な階級だと一目でわかります。そのグランドジャット島の一部が、右上の緑の林として、少しだけ描かれています。
2つの作品の制作年を見れば接近していますので、連続して描いたと思われます。方やブルジョワ層、一方は労働者階級とスーラは意図的に対比して描いたのでしょう。
右下の男の子、一人だけ目が描かれていますが、大声で何を叫んでいるのでしょうか。グランドジャット島に向かって、「ぼくもお金持ちになって、そっちの島で遊びたい!」と叫んでいるという推理は、いかがでしょうか。
4 大使たち (ハンス・ホルバイン) 1533年
ドイツ・アウグスブルク生まれで、イングランドでヘンリー8世に仕えた宮廷画家の、ハンス・ホルバイン(1497 - 1543)の代表作「大使たち」です。
二人ともフランス人ですが、左が在イングランド大使のジャン・ド・ダントヴィルで、右は大使ではなくて、司教のジョルジュ・ド・セルヴです。司教とはいえ、外交官のような役割も担っていたので、「大使たち」というタイトルになったと思われます。
ダントヴィル大使は、何歳に見えますか。かなり髭がありますが若そうに見えます。実は、彼が右手に持っている短剣に年齢が書いてあるのです。29歳です。
私は、ちょっと見て、左がヘンリー8世かなと思ったのです。ホルバインは、ヘンリー8世の肖像画も描いています。
この絵が描かれた1533年という年は、イングランドの歴史上、重要な年でした。ヘンリー8世がアン・ブーリンと再婚し、アンの戴冠式を挙行しました。それに教皇庁は猛反対し、イングランドとの関係は険悪になった時期です。
その状況下での大使の使命は、フランス王がこの結婚を容認することを伝え、宗教改革には穏便に対応するように、イングランドを説得することだったのです。しかし翌1834年、ヘンリー8世は英国国教会を創設しその首長となり、イングランドをカトリック教会から分離してしまいました。
ヘンリー8世が、英国国教会を設立する前後のことは、「わが命つきるとも」(1966年)という映画に詳しく描かれています。私のヘンリー8世のイメージはこの映画からきています。
二人の間には、さまざまな物品が雑然と並べられていますが、一つひとつに重要な意味が込められています。1つだけとり上げるとすれば、リュートと呼ばれる弦楽器です。弦が1本切れています。これはイングランドがローマ・カトリック教会から離脱しようとしていることを暗示しています。
EUからの英国の離脱もそうですが、「我々英国はヨーロッパとは違うぞ」、という潜在意識というか、DNAのようなものが脈々と受け継がれているのかもしれません。
この絵が有名なのは、二人の間の足元に、不自然に置いてある絵です。私には、絵が床に落ちる直前で止まっているように見えます。
説明ラベルには右側から見てとありますが、正面からでも、頭蓋骨が歪んでいるように見える絵だということがわかります。
では、なぜホルバインは、この不気味な絵を差し込んだのでしょうか。二人に死期が迫っていることを暗示しているのでしょうか。それとも、逆に魔除けなのでしょうか。
ヘンリー8世にカトリック世界からの離脱を思いとどまらせる、という重要なミッションを託されて、フランスから派遣された二人に、不幸が降りかからないようにと願って魔除けを置いた、と私は解釈したいところです。
でも、一般的な解釈は、人間は不老不死ではなく、いずれ死するものである、という意味だそうです。いわゆる「メメント・モリ」(なんじは死を記憶せよ)というもので、残りの人生をどう生きるべきか考えておきなさい、というメッセージです。
このように、わざと歪んだものを使って、別の見方をするとまったく別な物に見えてしまう技法を、「アナモルフォーシス」(Anamorphosis)と呼ぶそうです。
アナモルフォーシスの技法を最初に用いたのは、レオナルド・ダ・ヴィンチだとされています。何百年も後まで残る技法を生み出した、ダビンチはやはり天才ですね。
では、次にレオナルド・ダ・ヴィンチの絵をみてみましょう。
5 岩窟の聖母 (レオナルド・ダ・ヴィンチ) 1495 - 1508年
イタリア美術では、岩窟にいる聖母の絵画は珍しいとされています。新約聖書外伝にはイエスは岩窟で生まれたという記述があり、それを根拠にダ・ヴィンチは描いたとされています。
荒々しい岩肌は、聖母やイエスとは不釣り合いな気がしますが、岩窟は自然の偉大さの象徴、神聖な祈りの場、迫害から逃れるための隠れ家、子宮を象徴するもの、といった様々な意味があります。
自然の中に聖母やイエスを置くことで、神聖さを際立たせる効果があるような気がします。
聖母マリアの右手は、洗礼者聖ヨハネの肩にかかっています。「葦の十字架」を持って「羊の衣」をまとっています。聖母マリアの左手は、イエスの頭上の方に伸びています。イエスの右隣にいるのが天使です。立派な翼が描かれています。
私は、イエスの腰から太ももにかけての筋肉の肉づきの良さに、目がとまってしまいました。これには何か意味があるのでしょうか。特にこれについて触れているものは、見当たりませんでした。下半身がしっかりしている幼子イエスです。
実は、レオナルド・ダ・ヴンチの「岩窟の聖母」は、ルーブル美術館にもあります。こちらの方が最初だという説が有力です。
1483年に、ダ・ヴィンチと二人の画家が、ミラノのサン・フランチェスコ・グランデ教会から礼拝堂祭壇画の制作を依頼されます。しかし、最初の絵であるパリ版「岩窟の聖母」が完成後に、代金の支払いで注文主と裁判沙汰となり、パリ版は他の買い手に売り払われてしまったそうです。
ダ・ヴィンチがあらてめて、ナショナル・ギャラリー版「岩窟の聖母」を描き、納入したものの、部分的に未完成ではないかとケチがつき、ダ・ヴィンチが描き直したりしたこともありました。この契約をめぐる裁判はかなり長く続き、結果的に決着がついたのは1508年10月だった、ということです。
それにしても、驚きなのは500年以上前のことなのに、法的な書類や手紙などの記録がしっかり残っていることです。契約書には、祭壇画に描く人物の描き方など、かなり細かい仕様書も添付されているというから、当時から契約重視の社会だったわけです。
2つの「岩窟の聖母」には、もう一つ論争があります。描かれている二人の幼子について、「どちらがイエスか問題」です。
パリ版では、二人の幼子を区別する手がかりがほとんどありません。聖母マリアがマントでかばうように右手を肩にかけている方が、イエスだろうとされています。しかし、イエスは、両手で洗礼者聖ヨハネを拝んでいるようにも見えます。このしぐさに批判があったのですが、一方では、聖ヨハネの洗礼を受けるときには、イエスはこのようなポーズになるという解釈もあります。
ロンドン版では、二人の位置は逆になり、聖母マリアが肩に手をかけている方が、洗礼者ヨハネです。これは、持っている十字架と羊の皮から明らかです。
一説では、古い方のパリ版「岩窟の聖母」が公になると、拝むようなイエスはおかしいという批判があったので、ロンドン版の「岩窟の聖母」に、ダ・ヴィンチ本人か彼の弟子が、ヨハネの印であるの2つアイテム(十字架と羊の皮)を後から描き加えたと言われています。
元々、ロンドン版は、ダ・ヴィンチ作ではなく弟子たちの作品ではないか、という説がありましたが、ナショナル・ギャラリーはさまざまな検証の後、正式にダ・ヴィンチの真作だと発表しています。
いずれにせよ、謎多きレオナルド・ダ・ヴィンチですね。
6 レディ・ジェーン・グレイの処刑 (ポール・ドラローシュ) 1833年
「レディ・ジェーン・グレイ」は、ナショナル・ギャラリーの所蔵作品の中で最も人気がある絵画の1つだと言われています。大きさが246cm × 279cmという、文字どおりの大作です。目の前で等身大の役者たちが、ステージで芝居を演じていて、自分はそれを観客席から観ているような気分になります。
歴史画で知られるフランス人画家 ポール・ドラローシュ(1797 - 1856年)の絵です。彼は、歴史的な正確さを追求するよりも、劇的な効果を巧みに組み込んだ作品を多く残しています。彼は舞台装置の仕事もしていた、というから納得です。
ジェーン・グレイの処刑は、この絵では地下牢と思われるところで行われようとしていますが、実際には、ロンドン塔のホワイト・タワーの隣にあるタワー・グリーンという広場だったのです。
暗い牢獄の中で、純白のドレスの若い女性を際立たせる効果があります。実際に着ていたのは黒い服だとされています。
なぜ、ジェーン・グレイは処刑されなければならなかったのでしょうか。
ひと言でまとめれば、王室内の権力争い・宗教闘争にジェーン・グレイは翻弄されたのです。詳しいことは、彼女のことを扱った映画、ドラマ、文学作品がたくさんありますので、参考にしてください。
夏目漱石は、『倫敦塔』の中で、幽閉され処刑されたジェーン・グレイについて触れています。
漱石も、ドラローシュの「レディ・ジェーン・グレイの処刑」の絵を見たと書いています。
たった9日間しかイングランド王として在位しなかった悲劇の女王です。実は、イングランド史上実質的に初めての女王様だったのです。
ジェーン・グレイの後に、彼女も含めて6人の女王が誕生しています。
1 ジェーン・グレイ (1553年 9日間)
2 メアリー1世 (1553年–1558年)
3 エリザベス1世 (1558年–1603年)
4 アン女王 (1702年–1714年)
5 ヴィトリア女王 (1837年–1901年)
6 エリザベス2世 (1952年–2022年)
ジェーン・グレイの王位を剥奪し処刑を命じたのは、2番目の女王メアリー1世です。ジェーン・グレイは、知性が高くて熱心なプロテスタントでした。それに対し、メアリー1世はカトリックを信仰していました。メアリーはジェーン・グレイの治世が続いて、プロテスタント派が勢力を広げることを恐れていました。イングランドをもう一度カトリック国に戻すことを目指したのです。
ポール・ドラローシュは、絵の中にドラマチックにするための要素をたくさん組み入れています。たえば、ジェーン・グレイの純白のドレス。左端の失神した侍女が、彼女の脱いだ外衣を手元に持っています。死刑囚が刑執行の際に、こんな装いをするでしょうか。
ジェーン・グレイに仕えてた侍女が左側に二人いて、一人は失神しもう一人は絶望のあまり、太い柱に手を押しつけ頭を抱えています。
断頭台は、鉄の輪を使って動かないように固定され、その下には血を拭き取るためのワラが雑然と置かれています。その断頭台の向こうには、膝まづくための豪華なクッションが、対比的に置かれています。
目隠しをしたジェーン・グレイに聖職者が手を添えて、断頭台の位置を教えているという、まさにリアルな瞬間をとらえています。
私が注目したのは、右側の死刑執行人です。このような執行人にはあまりスポットを当てるものではなく、薄暗くして顔もわからないように描くのが普通ではないかと思っていました。
ポール・ドラローシュは、執行人や侍女について習作をいくつも残しています。実際に、舞台役者にポーズをとらせて描いたそうです。
この執行人は、斧を持ちジェーン・グレイを見下ろしています。見る人によってその表情の受け取り方は、いく通りもあると思います。哀れみか悲しみ、いたわり、執行の仕事を完遂しなければという義務と緊張感、などなど。執行人をジェーン・グレイの次にはっきりと描くことで、死刑執行は現実なのだと、観客に思わせているようです。
ジェーン・グレイの耳元でささやいてているような聖職者に注目してください。彼は、「もしカトリックに改宗すれば、処刑はしない」と言っているとされています。
しかし、敬虔なプロテスタント信者のジェーングレイは、最後までプロテスタント信仰を捨てることはありませんでした。このことが、プロテスタント国(英国国教会)であるイギリスで、この絵の注目度や人気を高めていると言えるかもしれません。
権力闘争と宗教対立、まさにこの2つは、現在でも世界各地で起こっている戦争・紛争・対立の大きな原因のひとつです。何百年経っても人類は、賢くならないのでしょうか。
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ここまで長々と読んでいただき、ありがとうございます。ロンドンのナショナル・ギャラリーは、「西洋絵画の教科書」と言われています。半日でも時間があったら訪れてみてください。
「ナショナル・ギャラリーの名画散歩 その1」も、よろしかったらお読みください。