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看護婦さんに「ボク」と注意されて
1 風邪をひいて診療所へ
今から60年以上前のことです。
私がおそらく5、6歳の頃、風邪をひいたので、母に連れられて、町で唯一の医療機関の診療所に出かけました。
診療所には路線バスが通ってなかったので、診療所が車で患者さんを送迎していました。
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診療が終わり、私は先に送迎の車に乗って母を待っていました。母は会計を済ませたり、薬をもらったりしていたのでしょう。
おそらく季節は夏だったのでしょう。車の窓ガラスは開いていました。私は先に乗って待っているように誰かに言われました。
私はしばらくおとなしく待っていましたが、だんだん退屈になって、車の窓に手を出して、ドアの外側の取っ手をカチャカチャと、いじり始めたのです。
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そのカチャカチャの音を聞きつけた看護婦さん(今は看護師)が、診療所の窓から顔を出して、「ボク、カチャカチャ、やらないでね」と言ったのです。
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そのセリフを聞いたとき、私はとてもびっくりしたのです。注意されたことよりも、「ボク」という言葉で呼ばれることがあるんだという驚きでした。
「ボク」という言葉が自分のことを指す言葉だということは、知っていたと思います。
でも、自分のことではなく、相手に向かって「ボク」と呼ぶことがあるということに、目から鱗のような感動を覚えました。
自分を指す言葉が、場合によっては相手に対して使うことがあるということを、それ以来、なんとなく意識するようになったのです。
さらに、「ボク、カチャカチャ、やらないでね」という言葉には、とてもおしゃれなニュアンスが感じられ、お坊っちゃん扱いされたような不思議な気分でもありました。
2.入院中の話ですが
「カチャカチャ事件」より後のことだったと思いますが、小学校に入学する前、お腹の病気で入院したことがありました。
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私が1人で病室にいると、知らないおじさんが入ってきました。近所の人でもないし、親戚のおじさんでもありませんでした。
病室はおそらく6人部屋だったと思います。隣のおじいさんは胃潰瘍で入院していたのですが、左足が膝から下がありませんでした。戦争で鉄砲で撃たれたと言っていました。子どもは私一人だったので、同部屋の人たちから可愛がられました。
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知らないおじさんは、私のベッドの脇に来て、名前は?と尋ねました。私はドキドキしながら自分の名前を答えました。おじさんは寡黙の人なのか、しばらく沈黙が続きました。
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おじさんの次の質問が、私にはよく聞き取れなかったのです。
何回か聞き直すと、「ワレは、いくつだ?」と言っていました。
「いくつだ」で年齢を聞かれていることが分かり、自分の年齢を答えました。「ワレ」が「わが」と同じで自分を指していることは、おじさんが帰ってから落ち着いて考えてみて、わかったと思います。
その後のおじさんとの会話は覚えていませんが、悪い人ではなさそうだという印象は持ちました。
結局、おじさんがいる間は親が来なかったので、私にとっては謎の人物のままでした。
その後、親が来て、こんなおじさんが来たよと伝えたら、そのおじさんは、両親の仲人さんでした。
「ワレは、いくつだ?」という言葉が、謎のおじさんとともに強烈に印象的だったのです。
「ワレ」が「あなたは」というように相手を指す言葉として使われるということは、「ボク、カチャカチャ、やらないでね」とともに、長く私の記憶に刻まれたのです。
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看護婦さんにしても、仲人さんにしてもも、おそらくもう黄泉の人ですが、何気なく言った言葉が、一生、私の記憶に残ることになるとは、思ってもみなかったことでしょう。
幼い私は、おじさんにお見舞いのお礼のことばなど言うわけがなく、今となっては悔やまれますが、言葉の不思議さを、私に気づかせてくれた看護婦さんと仲人さんのお二人には、ありがたいことだと思っています。
特におじさんにしてみれば、仲人をした夫婦の子どもが入院していると聞いて、見舞いにわざわざ行ったわけですからね。
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関西弁では、相手のこと、特に目下の人に対して「ワレ」と呼ぶことがあるようです。私は東北出身なので、「ワレ」の語感はないのですが、関西の方は、なんとなく「ワレ」や「ワガ」の語感を持っている人もいるでしょう。
仲人さんの出身地については、私の両親ともあの世なので、知る手立てもないのですが、もしかすると関西だったのかもしれません。