激流を漕いでいく必要など無かった
以前、なにかのイベントでちょっとすれ違ったくらいだったにも関わらずご縁が出来た方が、ご自身の苦しい心境について長い文章を投稿しているのを見つけてしまいました。
本文も長いし、そこに付いたコメントに対する返信もとても長い。
これを吐き出したくなるご本人の、内臓の奥にずっと溜まっている、なにか暗くて冷たいもの。
定期的に襲ってくる、飲み込まれそうになる絶望の想念を想像し、唸ってしまいました。
そんな想念は、賑やかに、忙しく過ごしていると一時忘れられたりもする。
でも一人になった、静かな、ふとした瞬間にどこからともなく襲ってきて、ああやっぱり自分にはこういうものがあると自覚させられる。
幸せとは?生きる目的とは?自分の生の価値とは?
ああ私も、こんな風にグルグル考えて考えて、行動して行動して、思考で自分のすべてをコントロールしようとし、それが果たせそうもなくて絶望感に浸っていたっけ。
「こういうものが幸せ、という具体的な何かがあるはず。」
…でも自分にはそれが何か分からないし、分かる術も見いだせない。
「人生は目的を持って歩むべき。目的なく漂流する人生は価値が低い。」
…ここまであがいても、いまだに自分の人生の目的が見つからない。
「ならば、せめて社会の役に立っていると思うことで、自分の生に価値を感じたい。」
この思考のど真ん中にいる人に、いきなり「その思考を手放しましょう」とか「そんな自分をまずは受け入れましょう」言ったところで、反応は「???」だろうなぁ…。
なんとか上手く分かってもらおうと言葉を駆使しても、短期間で腹に落ちるほどの納得をしていただけるとは思えないなぁ…。
しかもこれ、ネット上の投稿だし、ほんとのほんとの真意をお互いに確認できないからなぁ…。
という考えの元、コメント投稿を差し控えているのですが、ずっと微かに気になってしまっています。
多くの先人たちがいろいろな言葉を使って伝えようとしてきていること。それでもなかなか伝わらない、伝えきれない。
伝え方に近道はない様子。
それでも工夫をして、自分の想いを乗せて、少しでもマシな方法がないものかと模索する。
そんな中、たまたま目にした溝口あゆかさんの最新ブログ。
2018年12月11日「受け入れると楽になると言うけれど…。」
「自我の受容」と「本質の受容」かぁ。これまた深い。
私も激流を必死で漕いでいた。
その漕ぐということが必要なくなった。いや、元々必要無かったと知った。
呆気にとられるとはこのことだけれど、激流を知らなければ今の感謝もない。
冒頭の彼の行く末、少し案じながらも、徐々に緩んでいくことを祈りたいと思います。
≪巻頭の写真:Photo by Dan Convey on Unsplash≫