被災地・ボランティアという言葉
線状降水帯
去年の今頃「線状降水帯」という用語を始めて聞いたその翌朝、母からのLINEが送られてきた
見たことのない光景
友人にすぐ連絡をとると、
車の屋根しか見えないくらいに浸かっている
すぐに向かわなくても良いと言われ過ごしていると
「疲れちゃった」と母からLINE
土日に行くと変わり果てた風景
ニュースでは何度も山津波とも報道している
見渡す山は剥げておりスキー場のような肌が見えている
道路は至る所で陥没、道に巨大な岩、石、流木、泥の海
断水が続いている
ようやく電気がつき始めた
友だち
そんな時、こちらからSOSはなかなか出すことができないものだ
周りは、皆大変な状況
友だちに「実家どう?」とLINEがきても
写真を送る程度
私自身住んでいる地区は何ともないが
被害の地域は母一人で住んでいる実家
それでも友だちは、スコップ、石灰をもって来てくれた
来てと頼んでないのに「行くから何時に行けば良い?」と
パン屋を営んでいる同級生が、パンを沢山持って届けてくれた
一緒に遊んだことも、同じクラスにもなったこともないのに
母の保険会社の担当の人も泥を除ける手伝いをしてくれた
他人の家なのに泣いてくれた
こういう時、人の温かさを身に染みて感じる
私だったら、あまり話したことのない友だちのお母さんの家に来て
一緒に悲しんでくれて、一緒に笑いながら異臭漂う作業をできるだろうか
合間に、実家に帰るとよく会う友だちの家に行った
既に業者が、家具や家電を外に出す作業に取り掛かっていた
私の顔を見た瞬間、友だちも私も泣いた
被災地とボランティア
ニュースでは、「被災地」という言葉で現場の悲しい状況を伝える
その瞬間、その地域の人は「被災者」というレッテルを貼られる
視聴者は被災地の状況を観て、そして被災者の言葉を聞いて何かを感じる
行政が「ボランティア募集」という案内を出し
被災地に出向き、被災者に嫌な思いを少しでもしないように
配慮しながら手伝ってくれる
被災者という立場になって(正確には私ではなく母だが)
この「被災地」「ボランティア」という言葉が
とても耳障りな感じに聞こえてしまう
同じ目線に立って
被災地と呼ぶ人は、どこか高い所から
「へ~大変だね~」と傍観者のように見えてしまう
奉仕の心を持つボランティアさんなのに
いっぱいいっぱいの被災者と呼ばれる人(私)は
ボランティアという言葉に何か違和感を覚える
それは私だけだろうか
何も考えず駆けつけてくれる人
温かい心がほんとに癒された
笑顔になれた
心から「ありがとう」と何度も何度も繰り返した
一緒に泣いた友人は、私と会って
少しは心が穏やかになる瞬間はあっただろうか
話は戻るが、被災地を報道してくれる人
ボランティア活動をしてくれる人は
嫌な人たちではない
でもなぜか、その言葉にマイナスな気持ちをもたらす
今ででもニュースを見るたびに
その言葉と葛藤している
普段の生活から突き放され、いつ終息するかわからない苦しみ
疲労困憊しているところに
周りにありがとうと言える懐がほとんど無い
同じ目線で一緒に過ごしてくれる人
こんなにありがたいものはない
物理的な支援と心の支援
このバランスが保たれた時
この二つのワードに違和感を覚えないのだろうか