パーフェクトデイズのことをときどき思い返す
年明けにみたパーフェクトデイズのことを今でもよく思い返す。
(以下、ネタバレしてます)
この映画では無口で不器用な男性を役所広司が演じている。彼は自分の美意識のなかに閉じこもった生活をする。
読書、音楽、写真、盆栽といった趣味。銭湯や居酒屋に通う日常。トイレ掃除を完璧にするという仕事へのこだわり。
大きな変化ではなく、変わらない日常に喜びを見いだすことは、わたしにとっても理想的で憧れる姿。役所広司の口下手で不器用なところにも共感する。
ラストシーンの涙は違う人生があったかも知れない自分と、今の日々に喜びを感じる自分とのせめぎあいのように感じられた。否定と肯定、後悔と信念、悲しみと喜び、光と影。そこにすべてを合わせもつからこそ、パーフェクトデイズの言葉がふさわしい素晴らしい映画。
この映画に対する批判的な意見をたまにみる。なるほどとは思うけれど、だからといってこの映画の魅力が損なわれるものでもない。
よく見かける指摘は役所広司は勝ち組であるというもの。裕福な家庭で生まれ育った文化資本のある人間だから、高尚な趣味を楽しむ知識と素養がある。だからこそ可能な生活である。ある意味これは、エスタブリッシュメントによる庶民の文化盗用であると。
確かにお殿様が身を隠して庶民の日々を楽しんでるという構図も見えるが、ラストシーンの涙をみても、役所広司は楽しいだけの日々を送っているのではなく、そこには多大な葛藤があるわけで、勝ち組と負け組という切り分けは問題を二項対立にして矮小化しているようにみえる。
文化資本のある人間の悲しみや苦しみは甘えだ、その行為は消費だと切り捨ててしまうのは分断を生むだけではないだろうか。
個人的には、ストーリー展開がとてもご都合主義だなと見ていて感じた。世捨て人のように閉じこもって生きているけれど、音楽の趣味の良さから女の子にキスされたり、かわいい姪っ子が懐いていて泊まりにきたり、仕事の同僚が急にいなくなってもても翌日には交代要員がくる。
だか、こうして内向的な日常を送る役所広司が映画の中でいろいろな人に肯定されるからこそ、そうした日常に憧れる人たちも、自分たちが肯定されたように受け取ることができるのだと思う。
わたしも年を重ねてきて、単調な日々が多くなってきた。若い頃はいろいろあったなと最近よく思い返す。これから先は、きっと変わらない日々を繰り返すことになるのだろう。そんな時、パーフェクトデイズはわたしの心の支えになってくれるような気がする。