【創作大賞2024】金閣寺〜うつ病の果てに〜【エッセイ部門】
2021年5月25日。北海道札幌市中央区。
僕は「中等度のうつ病」と診断された。
2か月間の自宅療養。重たい日々が始まった。
きっかけは、とある大きなプロジェクトだった。準備期間はおよそ半年。最後の2か月間はほとんど休む暇もなく、本番直前は朝4時まで働いて朝7時には出社する究極ブラックな勤務が2週間近く続いた。
振り返ってみると、きっとどこかのタイミングで身体は限界を迎えていたんだと思う。食事を摂る時間も次第になくなって、体重は54kgまで落ちた。身長179cmの僕はどう見ても不健康な痩躯となりながらも、懸命に駆けた。駆け抜けた。
恐ろしいことに、その激務の最中に抱いていた感情は、どちらかというとポジティブなものだった。入社7年目にして、社を挙げた巨大プロジェクトを手がけることができる。重すぎる責任と引き換えに、代え難い充足感に満たされた。
「絶対に成功させてやる」
自らを奮い立たせ、チームを鼓舞し、とにかく全力。
甘えない。悩まない。立ち止まらない。
できることは全部やり切った。成功すると信じられるほどには頑張った。
はずだった。
プロジェクトはとてつもない不評に終わった。
会社内での低評価、
S N Sでのバッシング、
関わってくださった人々からの不満。
すべての言葉が僕の心に突き刺さり、八つ裂きにした。
反省と後悔、謝罪、そして虚無。
全力で頑張ったから、懸命に駆け抜けたから。
自分自身と、自分が信じている“なにか”の全否定だった。
少しも走れなくなった。
なにも信じられなくなった。
27歳になったばかりの春のこと。
積み上げたはずの人生が音を立てて崩れていった。
札幌の春はとにかく遅い。5月ごろまでは冬の断末魔がしぶとくこだまして、平気で1桁の気温を記録したりする。僕のなかで“なにか”が事切れたのも、そんな5月上旬のことだった。
数ヶ月に及んだ激務とプロジェクトへの批判で心身ともに疲れ果てた僕は、その残り香のような寒さから身を隠すように、ベッドのなか布団のなかへと潜り込み、出社はおろか一歩たりとも外出できなくなった。
身体の震えが止まらない。視界が曖昧になる。思考はまとまらず、言葉が喉を通らない。見ているものも、触れているものも、考えているものも、すべてが曖昧で、自分という存在そのものが溶けてしまうような感覚。それはまるで、あまりの高熱に体温調節機能を失って七転八倒する夜に似ていた。そんな眠れぬ夜が永遠と続くような。
そうしてまた1週間くらいが経っただろうか。魘されるような激しい狂乱はひき、とうとう底抜けの暗闇が訪れた。ここからが本当の地獄。それまではただうるさかった騒音が、実は悲鳴だったと気がついてしまうような恐ろしい静けさ。脳内に思考が埋め尽くされていく。ひしめきあう数多の後悔と失意。
僕は希望していた会社に入社した。仕事内容も、小さい頃から憧れていたものとそう離れてはいない。社内でも恵まれていて、年齢にしては大きな仕事を任せてもらってきた。とにかく働くのが好きだった。働いて夢を叶えたいと本気で思ってた。
だからこそ、苦しくて苦しくて仕方がなかった。
想像できる最も恵まれた状況で、僕は動けなくなってしまったのだから。
なんて情けないんだろうか。
なんて惨めなんだろうか。
なんて僕は、ダメなヤツなんだろうか。
期待してくれた周囲の人々への申し訳のなさ。
大切に育ててきてくれた家族への申し訳のなさ。
これまで頑張って生きてきた自分への申し訳のなさ。
いつしか僕は「終わりにしたい」と思うようになった。
「死にたい」とか「消えたい」という物質的な願望ではなくて、それはたしかに「終わりにしたい」という時間的な願望だった。
いくつもの想像が頭をよぎる。でもいつも、その想像の最後には「痛み」という稲妻が走る。精神や思考が希求する結末を、肉体が否定し抗っている。まさしく身体の悲鳴、断末魔。その響きには、たしかに否定できないほどの恐怖が孕まれていた。時間的な終焉につきまとう物質的な終焉を恐れた僕は、ただひたすらに無力な存在となって行き場を失い、彷徨いついた精神科で「中程度のうつ病」と診断された。「中程度」ってなんだよって、今となっては思う。
自宅療養最初の1か月間は本当になにもしなかった。札幌への転勤が決まり「せっかくなら」と購入したダブルベッドの上で、ただ横になっている。紺色のシーツをかけていた無駄に大きなベッドには、波立つ大海のような錯覚があった。ゆらゆらと静かに、どうしようもなく漂っている。窓際に置いたベッドからは、四角く切り取られた空がよく見えた。どんよりとした冬の空は遠ざかり、だんだんと春らしい青白い空が広がっていく。世界がまわっているとわかる。けれど、僕はベッドの上で揺蕩うよりほかなかった。
1か月も経つと薬が効いてきたのか、色々なことが段々と落ち着いてくる。思考、感情、生活リズム。正確にいうと、落ち着いてくるというよりは起伏がなくなるというか、感じることの振れ幅が極端に少なくなった機微に乏しい毎日になった。薬というトンカチで感情や思考の杭が無理矢理にでも打たれ尽くしてしまったように、とにかく凪いでいた。
このまま感情を失ってしまうのではないかと急な不安に襲われた僕は、映画を見たり小説を読んだりすることにした。どちらも長年の趣味。入社してからは「忙しいから」と言い訳をして見る本数も読む冊数も減っていたから、見たい映画も読みたい書籍もたまっていた。突然の自宅療養で宙に浮かんだ膨大な時間に、それらと1つ1つ向き合っていく。
が、やはり薬のせいか、あるいは病気のせいか、映画にも書籍にも集中できず、内容の理解や感情移入が難しい。こんな状況で鑑賞してしまうのはなんだか申し訳ない気がして、結局はやめてしまった。そこで代わりにと始めたのが、人生で一度も手を出したことのない筋トレだった。
Youtubeでいくつもの動画を掘り起こし、独自のメニューを組んだ。毎日1時間近く。腹筋、大胸筋、上腕二頭筋、HIIT、スクワットなど、なぜそこまでストイックになれたのか今からはもう想像もつかないが、とにかくやった。来る日も来る日も、朝起きて筋トレをし、鶏胸肉で作ったサラダチキンだけを食べ、大きなベッドでゴロゴロとする。なにも考えなくていい、ただ時の流れのままに繰り返すだけの毎日がとても心地よくストレスがなかった。
いつしか僕の身体はバキバキに美しくなった。腹筋は割れ上腕二頭筋は盛り上がり、体脂肪率は5%にまで絞られた。人生で最も見られることのないタイミングで、人生で最も見られるべき身体を手に入れたのだった。誰かに見られるためでなく、自分のためだけに、というより、生きていくためにつけた筋肉。完全に無意味であると同時に、完全に意味のある肉体だった。
このことは僕の自信につながった。日々変化していく己の肉体から“生きている”という実感が沸き、ストイックな鍛錬(といっても自重トレーニングだけれど)を続けられるという日常の回復に生活への復帰を予感した。まもなく自宅療養の2か月が終わろうとしている。社会生活に戻れるのかもしれない。また働けるのかもしれない。
そう思っていた矢先。
祖父が亡くなった。
7月7日。七夕の夜だった。
両親には心配をかけたくない一心で、病気のことも休職のことも話していなかった。逝去を告げる電話口で母親は言った。
「忙しくない? お葬式は来られるかしら」
残酷な響き。母親は、遠く離れた北の地で、僕が懸命に働いていることを信じて疑っていないのだ。なのに、それなのに……。とにかく自分が恥ずかしい。社会から隠れるように生き延びていることが、そんな自分に安心し充足感すら抱き始めていることが、なにより親に本当のことを言えないことが。
もし僕が自宅療養のはじめに本当のことを告げていたらどうなっていただろう。祖父の最期に立ち会えただろうか。ほんのわずかでも、成長した姿を祖父に見せることができただろうか。もう何年も会っていなかった祖父。仕事を始めた僕に「誇り」だと言ってくれた祖父。僕の活躍を楽しみにしていると背中を押してくれた祖父。
そんな祖父はもういない。
会うこともできないし、話すこともできない。
祖父が病と闘い家族を思い出していたであろう今際の際に、あろうことか僕は精神を病み会社を休み、ただひたすらに筋トレをしていた。
悔やんでも悔やみきれない、二度と戻らない時間。
肉体に刻まれた筋肉が僕の後悔と恥の証拠へと様変わりした。
祖父の葬儀はあまりにも辛かった。
自分の表情や行動にうつ病が出ていないかと不安になって、一挙手一投足がストレスになる。周囲が描く「頑張っている社会人」として振る舞い、周囲が語る「活躍している自慢の親戚」として話をあわせる。
「最近はどんな仕事をしているの?」
「痩せた? やっぱり忙しいんだね」
「お祖父ちゃんよく自慢してたね〜」
今の自分とかけ離れた幻の自分。その乖離が鈍痛のように全身に響く。立ち直ろうとしていた心にまたひびが入り、取り戻そうとしていた自信は急速に遠ざかっていく。
そして、そこには“死”があった。
白く冷たくなった剥製のような祖父の肉体。
涙ながらに棺桶へと放り込む白い花々。
ついにやってくる“最期”。
生命とは無縁なほどに色のない骨と灰。
そうか、こうやって死ぬのかと思った。
こんなにも簡単に人は消えてしまうのかと。
肉体は脆く、筋肉など幻影で、残るのは骨と灰だけだ。
途端にすべてのことが無意味に思えてきてしまった。仕事を休み、映画や読書からも距離をとり、社会から隠れひたすら自宅で筋トレを繰り返すだけの日々。それだけでない。懸命に頑張っていた仕事も、喜怒哀楽に溢れた人間関係も、美味しい料理も、美しい景色も、実際にはただの幻ではないか。どうせ死んでしまったらすべて灰になるのだ。そして、その一点において、すべての人間とすべての生命とすべての物質は等しく意味も価値もないのではないかと疑うようになった。
それは「死にたい」とか「消えたい」とか、もはや「終わりにしたい」というような積極的な生命への思考ではなくて、ただ否定的に「意味がない」という拒絶。生きている意味も、死んでしまう意味も、ない。絶望的な感覚だった。
実家で過ごす最後の夜。夏の盛りで暑い時期、風呂上がりに上半身裸でくつろぎ食事を待っていると、僕の筋肉が家族の目に留まったらしい。
「なに? 鍛えているの?」と母が聞いた。
「うん、まあね」
「ちゃんと食べてるんだよね」と母が案じる。
「食べなきゃこうはならないよ」
はぐらかした僕に母が言った。
「なんだか三島由紀夫みたいだけど大丈夫?」
「ねぇ」と同意を求められた父は苦笑いを浮かべた。
僕はいまだに病気のことも休職のことも家族には話せていない。でも、今振り返ると、両親は、特に母は薄々と気がついていたんじゃないかと思う。僕の異変に。僕の悩みや迷っていることに。「病気みたい」とか「病んでない?」とか「悩みでもあるの?」とか、そういう不安の意訳としての「三島由紀夫みたい」だったんじゃないだろうか。かつて翻訳家として活躍した母なりの心配の言葉。そのひと言が僕を三島由紀夫の世界へと引きずり込んだ。
三島由紀夫といえば、戦後日本を代表する作家の1人であり、『雪国』や『伊豆の踊り子』を著した川端康成と同じ1968年にノーベル文学賞の候補に上がるなど、世界的にも高い評価を獲得した作家であった。
ただ恥ずかしながら、僕はこのときまで三島由紀夫を読んだことはなかった。唯一知っていることといえば、1970年に自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自殺を遂げた三島事件のことだけだった。小説好きが多い我が家ではときどき三島由紀夫の名前があがることもあったけれど、いつも三島事件と結び付けられて否定的な文脈で語られることが多かったからだ。
「三島由紀夫みたいだけど大丈夫?」という母の言葉に連れられて、ぼんやりと三島由紀夫のことを調べ始めた。
戦時中の検査結果で戦死を免れたことからくる「身体の虚弱と気弱さ」へのコンプレックス、のちに弛まぬ鍛錬で鍛え上げた筋肉と威容な身体、そして取り憑かれたように自死を選んでしまった最期。
そのどれしもが、当然烏滸がましく比べるべくもないとは思いつつ、僕の体感や感情と重なった。仕事の失敗から精神を病み、その気弱さをもって自分を責めてコンプレックスとなり、ひたすらに筋トレで鍛え、祖父の逝去を体験することで目を背けていたはずの「死」と向き合わざるをえなくなった自分。
三島由紀夫に強烈に心を惹かれてしまった僕は、1冊1冊と読んでいくことを決めた。作品リストを眺め、どの順番で読んでいこうかと考える。そして、まるで啓示のようにそのタイトルが飛び込んできた。
『金閣寺』
きっとこの作品が最後なのだと考えた。あまりに光り輝いて見えたその文字に気後れしたのかもしれず、あるいは来るべき感情を無意識に先取りしていたのかも知れないが、とにかく何冊か読んでから『金閣寺』に向き合うべきだと直感したのだった。
そこでまずは読みやすいというレビューを信じて『潮騒』のページをめくる。圧倒的に美しい言語描写の数々が流れ込んでくる。うつ病と診断されてから、もう何ヶ月ものあいだ忘れていた「感情」というものが蘇ったような気がした。美しいものを美しいと感じる余白。『潮騒』はそのことを思い出させてくれた。
続けざまに、『仮面の告白』や『鏡子の家』、『豊饒の海』などと読み進めていった。自宅に引き篭もったままで、三島由紀夫の描く世界と社会に触れた。自分自身の人生感覚を失った僕の身体に、三島由紀夫の人生感覚が言語を通して渦巻いていく。現実感など関係のない虚実混交の読書=人生体験に心が生き急いでいった。
あのときの奇妙な感覚はなかなか言葉にはできない。僕はなにを求めて、あそこまで狂ったように三島由紀夫を読んでいたのだろうか。祖父の死に際し、その無機物然とした「骨と灰」を目の当たりにして芽生えた<すべてに意味がない>という感覚は持続していた。それを打ち消そうとして三島由紀夫の文学に身を委ねたのかもしれないが、ほとんど自明なほど逆効果で、作品を読むたびに虚無は増幅されていくばかり。
でも同時に、三島由紀夫の文学がもつ美しさに心酔し、読書という行為そのものが生きる意味を自転車操業的に植え付けているようにも思えた。<意味がない>と感じる時空間のなかで、<意味がある>と感じる三島由紀夫の作品を読み、また<意味がない>という感覚へと戻る。
次第に不安が募るようになった。もし三島由紀夫の作品を全て読み終えたとき、僕はどうなってしまうんだろうかと。冷静になって考えれば、三島由紀夫以外にも素晴らしい作家はいるし素晴らしい作品だってある。でもやつれ果てて薬漬けにされていた当時の僕は、バカ真面目にそんなことを考えていた。あと何冊と数えるたびに、それはまるで人生のカウントダウンかのようにさえ感じるほどだった。
そんなとき、あの問題作と出会ってしまう。
『憂国』である。
『憂国』に立ち込める蠱惑的な死の香り。1961年に発表された本作に描かれる割腹自殺のありさまは、1970年に待ち構えている三島由紀夫自身の割腹自殺を予感させる。いや反対に、この作品を書いた当時にはきっと自らの将来を決めていたのではないかと勘繰らせてしまうほどに、その描写は生々しく、死への希求と生への後悔が刻まれているように感じた。
自らの肉体を傷つけて迎える最期。“死”を想像するたびに僕が避け続けてきた「痛み」という稲妻がそこかしこに走っているにもかかわらず、『憂国』は僕に倒錯的な感覚を呼び覚ます。その「痛み」を受け入れてみたくなってきたのだ。自分のなかで、守らなければいけないはずの“なにか”が変容するのを感じた。それはおそらく、5月上旬にはすでに崩れてしまっていたはずの“なにか”。奇跡的に持ち堪えてきたその“なにか”にも終わりが来たらしい。“そのとき”が近づいている。そんな感覚があった。
僕は京都行きの旅行を企てた。
「金閣寺」を見る。そのためだ。
自宅で『金閣寺』を読んでから見に行くという選択肢もあったとは思うけれど、当時の僕はそうしなかった。なにかを恐れていたのかもしれないし、なにかを期待していたのかもしれないけれど、とにかく「金閣寺」を見に行かねばならないと強く思った。それも時間をかけて。『金閣寺』を読みながら。
8月19日。
札幌の家を出発し、地下鉄とJ Rを乗り継いで新千歳空港に着いた。
片手には『金閣寺』がある。
僕の心中で描き出される金閣もまた同様に、途方もないものであった。当然実物の金閣は写真や映像で見たことがある。黄金に輝いたその姿は脳裏に克明に焼きついているが、このときの僕が期待しているのはその輝かしい美しさではなく、もっと禍々しく運命的な美しさに違いなかった。自分の人生を決めてくれるような、あるいは生死を裁いてくれるような、絶対的な存在としての金閣を求めていたのだ。
金閣を前にして、果たして僕はなにを考えてなにを思うだろうか。そんな期待と躊躇が去来して、舞鶴線で京都へと向かう主人公と自分を重ねた。吃音で悩む主人公は、身体の虚弱と気弱さにコンプレックスを抱く三島由紀夫自身であるかも知れず、またうつ病という爆弾を抱えて閉じこもる僕の姿なのかもしれなかった。
東京では実家に足を運ぶ気にならず、コロナ禍の影響もあって格安だった三越前駅付近のビジネスホテルに泊まる。高島屋だったか三越だったかのデパ地下で総菜を購入し、ホテルでくつろぎながら食べて、また『金閣寺』を読んだ。すると、こんな文章に出くわした。
震えを覚えた。僕が祖父の葬儀で感じたことにあまりにも似通っていた。“
灰になる”という絶対的な事実のまえには何事も何物も平等で、その“終わり”を否定することができないのだ。『金閣寺』に描かれたこの思想が、まさしく金閣寺へと向かう僕を勇気づけたことは言うまでもなく、期待の炎が燃え上がる。
東京から京都へは、青春18切符を使い鈍行でゆっくりと向かった。東海道本線で揺られることおよそ2時間。熱海で乗り換える。次もまた東海道本線で、今度は浜松を目指す。並走する新幹線を観光客や出張のサラリーマンが律儀に座席を埋め尽くすのとは異なって、各駅停車の東海道本線は日常使いの人々が営む生活の空気で混み合った。
隣駅まで買い物に出る高齢者、夏休みの部活帰りと思われる学生の姿、子供連れの朗らかな会話やカップルたちの嬉しそうな笑顔。車窓からは富士山が見える。海沿いを走ると磯の香りを感じたりもする。この人たちは生きている。自分たちの時間を、自分たちの空間を。
ふと昔の自分の姿が重なった。貧乏だった大学時代、よく青春18切符で旅をしたものだ。1番遠くは、1日で東京から香川まで電車を乗り継いだ。大学生5人。他愛もない会話。誰が好きだとか、あの授業は単位が取りにくいだとか、旅先ではこれが食べたいだとか、その瞬間だけを生きる会話を交わした記憶。車窓の景色なんか見ていない。周囲の人々なんか気にも留めない。ただ僕らだけの時間が、僕らだけの空間が、そこにはあった。きっとあれが生きているということだったんだ。
だいぶ遠くまで来てしまったのだとわかる。あの日想像していたような“未来”との距離を感じながら、居住地である札幌からも、生まれ育った東京からも、ひたすらに遠ざかる。西へ西へ。ただひたすらに金閣だけを求める旅路。気がつけば日が暮れて、京都駅に着いていた。
ついに金閣を見る。かつて「美に対する嫉妬」を理由に放火された金閣と対面できる。京都のビジネスホテルで、テイクアウトの餃子を食べながら様々な考えや記憶を経巡った。
そもそもの発端は、社をかけた大きなプロジェクトをなんとしても成功させたいという考えからだった。今までにないものにしたい。関わってくれる人が喜んでくれるものを目指そう。社会的な評価だってほしい。とにかく色々な願いと祈りをこめたプロジェクトが成功とはいえない結果に終わり、自らの無力と仕事への虚無、そして人間不信と人生への絶望からうつ病を患った。
長い長い道のりだった。自宅療養は3か月にも及び、もはや社会に復帰する気力などなく、三島由紀夫の文学にどっぷりと染められた僕は、金閣を前に“なにか”の終わりを確信していたのだった。
明日で終わる。すべてが終わる。
どう転んでも、明日で人生が、生死が決まると確信していた、僕は。
あとは金閣を見るだけだ。そのときに僕がなにを考え、なにを想い、なにを決断するかに、すべてを委ねよう。そう決意して、僕は「金閣寺」を読み終えた。
翌朝、うす暗い雲に覆われた京都の街は雨に降られ静まりかえった。宿から金閣寺までは歩いて30分ほどだった。持ってきていた小さな折り畳み傘に身を隠し、地図も見ないで、方角と看板を頼りに金閣を目指した。
心象風景とはよく言ったもので、この日の天気は本当に僕の心を表しているかのようで憎かった。決して土砂降りではなく、鬱陶しいように降り続く小雨は、彷徨い歩く僕の精神の弱さを指摘しているようだった。
いよいよ金閣に辿り着く。雨はまだ止まない。拝観料を払って中に入り、木々に囲まれた庭を歩いた。
もうすぐ出会う、金閣に。美しさの化身たる金閣に。
予感する、予想する、期待する。精神を病み、ついには遠く離れたこの地まで、人生の運命の生き死にの決断を求めてやってきた僕に、金閣はどのような姿を見せるのだろうかと。胸が高鳴り、目眩が襲う。強烈に見たい。でも同時に、強烈に見たくない。生と死の狭間。そしてその瞬間は訪れた。
金閣が現れた。黄金に包まれた金閣が。
禍々しいほどに照り輝く三層構造の金閣が眼前に聳え立つ。
母親から「三島由紀夫みたい」と言われたときに運命づけられ、『金閣寺』との邂逅とともに憧れ続けていた金閣との出会い。僕自身の人生を決めると信じ続けてきたその瞬間は、あまりに拍子抜けするほどに、なにものでもなかった。
観光地と化した金閣は、金箔に身を包まれて虚栄を張っているような印象を与えた。雨のなか佇むその姿は、どことなく寂しげで申し訳なさそうな雰囲気さえ漂っていて、三島由紀夫が描き僕が想像したような美しさは面影すら感じられない。
人生をかけた旅は思いがけない結末を迎えたのだった。
途方に暮れて僕は歩いた。「→順路」に従って、観光客として金閣を“眺めた”。その残酷な仕打ち。僕は答えを見失い、照り輝く金閣から目をそらす。
そのときだった。
雨に打たれる水面に、幾つもの波紋が広がるのが見えた。
なんだろう。目をこらす。
次の瞬間、僕の瞳に生命の涙が漲った。
アメンボだった。
アメンボが懸命に水面を張っている。
雨に打たれながら。
湖に浮かぶ金閣の幻影の上を悠々と。
アメンボはただひたすらに水面を張っている。
これが生きるということなのだ。
それが僕の心が出した答えだった。
僕は三島由紀夫の研究者でもなければ、熱狂的(専門的)な読者でもないので、ここから書くことはあくまでも僕の経験としての三島由紀夫。僕の人生と三島由紀夫のことでしかないと断っておきたい。