未来がこちらを見ている (第4回阿波しらさぎ文学賞 一次通過作品)
お菓子が小さくなった。東京へと向かう新幹線の座席で、キヨスクで買ったお菓子をむさぼりながら小宮賢一は思った。細長いスナック菓子は以前と比べて細く短くなっていて、チョコ菓子は形状を保持したままひそかに縮んでいる。由々しき事態。いや、むしろお菓子だけがそのままで世界のほうが大きくなったのか。小宮が中年太りの腹をさすりながらエセ相対性理論を提唱していると、いきなり前の座席が親の仇とばかりにバコーンと倒れてきた。躊躇のカケラもない白昼堂々の犯行。お菓子を載せたトレイは座席と切り離されているため少し揺れただけで我関せずを決め込んでいる。小宮は当然の権利として自らの座席を同じ角度まで後ろに倒すべく横のレバーを引いた。その瞬間、危険を察知したらしき後ろの乗客が素早く両足を踏ん張って抵抗してきた。自重で後ろに倒れるものと高を括っていた小宮は押し返され、座席はむしろ垂直に近くなった状態で固定された。前後から圧迫された小宮はわずかに残されたスペースで巨体を折りたたむように小さくして、小さくなったお菓子をつまんだ。新幹線の車内にはモーターの重低音だけが老人の寝言のように響いている。指先に付着した粉を擦り落とし、あっけなく食べ終わった菓子屑を膝に密着した前方座席の網ポケットに挟んだとき、東京駅への到着を告げるアナウンスが響いた。
やたらとビルが高い。テレビ局に向かう道中で小宮はたびたび空を見上げた。多角形に切り取られた夏空は、ビル窓の鏡面反射を利用して様々な角度から強烈な日差しを浴びせてくる。おびただしい数の窓ガラスの向こうにおびただしい数の人間が詰め込まれている。満員電車を縦にしたみたいなそれを想像しながら小宮は歩を進める。
ふと、路肩でもぞもぞ動いているおじいさんが目に留まった。ぼろ雑巾を寄せ集めて人間にしたような老人だ。彼は道路の端でバールのようなものをアスファルトに打ち込んでいる。それが都会でよくある光景なのかそうでないのか分からぬまま小宮は立ち止まった。
「何してるんですか、それ」
「……未来を、切り拓いとる」
老人は地面をグリグリやり始めた。地面をグリグリやるために生まれてきましたと言わんばかりに迷いのない手つきだ。都会人らしき早足の人たちはこの異様な光景に見向きもしない。彼はあるべき往来からはみ出してしまっているのだ。小宮は、背中の曲がった老人に実家の両親の姿を重ねた。最近、実家に帰るたびに両親が小さくなっていく。終わりが近づくと縮んでしまう。小宮は先ほどのお菓子からの連想で苦い感情をつのらせた。
ノックの音がして楽屋のドアが小さく開く。隙間から若いスタッフの顔が覗いた。
「ポルチーニ小宮さん、本番十分前、ご準備お願いしまーす」
せまい室内に不必要な大声が響く。その響きの中に、かすかにどこかの地方の訛りを感じた。小宮が「了解、妖怪、瀬戸内海!」と持ちギャグで返すとすでに彼の姿はなく、足音だけがバタバタと遠ざかった。それで勝ったつもりか、と小宮はケータリングのお菓子に手を伸ばす。小さくなったお菓子をむさぼる。スタッフの彼はADになりたての下っ端なのだろうが、都会のテレビ局で働ける喜びみたいなものがにじみ出ていた。合コン時にはチーフADだと詐称しているのかもしれない。東京という街にはエネルギーが満ちている。地方から吸い取ったエネルギーは秘密裡に蓄積され、選ばれし者にのみ還元される。
小宮はもう一度、楽屋の鏡に向き直った。渡された薄っぺらい台本は読み込みすぎてしわだらけになっている。たった五分の出番なのに、お昼の生放送であることが緊張感を否応なしに昂らせる。『キムラタケシの注目トピック』と銘打つコーナーで、徳島が生んだ大人気タレントと紹介されてスタジオに呼び込まれる手はずだ。そのフレーズを脳内で再生すると小宮は軽いめまいを覚えた。都会に金玉を握りつぶされるような感覚。本物の国民的スターであるキムラタケシの前で何をやろうとも、ライオンに立ち向かうチワワみたいなものだ。多忙を極めるキムラタケシは先ほどのリハーサルには来なかった。あのキムラタケシが四国のしょぼい芸人などに注目するはずがなく、彼は与えられた台本をこなしているにすぎない。その建前上だろうともありがたき国民的スターのお墨付きをもらうべく小宮はここにいる。台本によるとギャグのきっかけはキムラタケシ自身が作ってくれる。
「小宮さんって背、高いんすね」
彼がそうやって小宮の190センチの長身を指摘すると、すかさず
『小宮だけどおっきいのぉ~。スダチざかりで〝ス〟みません!』
とお決まりのセリフを放って帽子を脱いでおじぎする。頭頂部の毛を〝ス〟の字に残しているところがカメラで大写しになる。はい、ここで大爆笑。
徳島ではこの鉄板ギャグですべったことはない。ごくまれにすべり気味であったとしても、それは例えば客の身内にたまたま不幸があったとか、客がたまたま声を出せないくらい扁桃腺が腫れているだとか、そのような客側の問題にすり替えることで切り抜けてきた。小宮は三年前、相方の伊藤と組んでいたお笑いコンビ《敏感ポルチーニ》を解散した。伊藤が派遣型風俗にはまったあげく性病の治療のためにロケをすっぽかしたことが直接的なきっかけとなった。ピン芸人となったことを小宮は後悔していない。ピンになってからもポルチーニを名乗り続けているのは未練からでなく、もともと自分一人でポルチーニは完結していたという自負によるものだった。苦しんだ末に生まれた渾身のスダチギャグで小宮は人気を獲得し、徳島の好きな芸人ランキング第八位に輝いた。そして偶然か必然か東京のテレビ人の目に留まることとなった。
いざ東京と腹を力ませて徳島代表のつもりで楽屋入りしたものの、ギャグを確認するうちに小宮の顔は次第に暗くなった。「何だよスダチざかりって……」鉄板ギャグのはずなのに、ただの悪ふざけにしか見えなくなっていた。あらためて東京都民の目線で見てみると、そもそもスダチが何なのか分からない。とんでもない誤算に今さら気付いて小宮の心拍数は急上昇した。人気女子アナのスノパンがギャグのあとで徳島の名産品であることを解説してくれる段取りになってはいるが、あとの祭りだ。あとのスダチか。
全身からねばっこい汗が噴き出す。もしギャグを披露してスタジオを凍り付かせたらどうなる。徳島の恥さらし。しかもあの国民的スター、キムラタケシを巻き添えにしてしまうかもしれない。実家に岩豆腐を投げ込まれるくらいは覚悟せねばなるまい。
小宮はおもむろに白シャツのボタンを外した。中には何も着ていないのですぐ裸になる。お腹の部分に黒マジックで大きく〝ス〟と書いてある。金がなくてモヤシばかり食っていた頃はモヤシみたいに痩せていたが、そこそこ売れた今では体重が120キロまで膨らんだ。そのわがままボディを生かして編み出した『スダチざかりで〝ス〟みません!』の新バージョン。本当は徳島で披露するために温めていたギャグだった。徳島県人が予定調和的に頭頂部の〝ス〟を求めているところに、腹から〝ス〟が出てくるという裏切りの笑い。最終兵器と呼ぶべき必殺のギャグ。ただ、新ギャグの筆おろしを東京の地でおこなうことに躊躇があった。徳島を裏切るつもりか。でも東京で売れれば徳島への恩返しができる。
本番までもう時間がない。最後に一度だけと鏡に向かう。腹の〝ス〟と頭の〝ス〟を比べてみる。こうやって比較すると腹の〝ス〟が安易に思えてきた。これは頭の〝ス〟があってこその裏切りであり、何の前提条件もない東京都民においてはただ腹に文字が書かれているにすぎない。ぶよぶよに太った醜い腹を披露するのも若い女子にはウケないだろう。どうしよう。冷静に見ると両方とも全然おもしろくない。何だよスダチざかりって……。どうする。やっぱり頭だ。王道だ。小宮はそう自分に言い聞かせて楽屋を出た。
スタジオ横にスタンバイすると、出演者たちの声が聞こえてきた。その中にキムラタケシの声が交じっていることに気付くと小宮は途端に緊張した。鼓動が高鳴る。豊満な上半身に比べて細っちい足がプルプル震えてきた。
「それでは、徳島が生んだ大人気タレントの登場です!」
スノパンの呼び声がして小宮の緊張はピークに達した。腹部にハムスターでもぶつかってきたら吐いてしまいそうだ。震える足取りでへなへなとスタジオに入る。強い照明が小宮を照らした。スノパンと目が合う。本物だ。顔の小ささが際立っている。人形めいた美貌に見とれつつ、その隣にいる男性に目をやる。国民的スター、キムラタケシ。彼はサバンナに鬣をなびかせる百獣の王ライオンのような佇まいで立っていた。動物としての力量の差を見せつけられる。小宮はすでに打ちのめされた気持ちでスタジオの真ん中に立った。
「徳島が生んだ大人気タレント、ポルチーニ小宮さんです!」
拍手の中、スノパンが華やかな声で紹介した。小宮は自分の芸名を呼ばれているのにどこか他人を眺めているような気分になっていた。キムラタケシが満を持してといったおもむきで、小さく咳払いしてから口を開いた。
「小宮さんって背、高いんすね」
来た。一字一句台本通り。たとえリハーサルに来なかったとしても、本物のスターは間違えない。キムラタケシは映画の長い台本ですら完璧に覚えてから本番に臨むらしい。こんな一言なんて造作もないことだろう。
小宮は意を決して、何度も繰り返してきた動作を始める。
『小宮だけどおっきいのぉ~。スダチざかりで〝ス〟みません!』
帽子を脱いでおじぎする。頭頂部の〝ス〟の字が大写しになる。ここで大爆笑……のはずだった。〝ス〟タジオはしんと静まり返り、〝ス〟タッフの誘い笑いだけがむなしく響いた。続いて〝ス〟ノパンも義務的に笑う。それから観客たちが「笑わなきゃ」と本来の役目を思い出したようにおそるおそる笑いだし、ミジンコレベルの笑いが起きた。キムラタケシは声を出さず、口角を少し上げることで微笑みの感情を表明していた。
おじぎした状態で固まったまま、脳内のKOMIYAが言い訳を始める。客全員の扁桃腺がしこたま腫れてスダチみたいになっているのかもしれない。KOMIYAが記憶を捏造していると、急に今朝のおじいさんが頭をよぎった。「未来を切り拓いとる」彼はそう言った。バールのようなもので地面をグリグリやって割れ目の向こう側にある未来を手繰り寄せようとしていた。今の自分はどうだ。これでいいのか。まだやれる。まだやれる!
小宮は着ていた白シャツの前面に両手をかけた。想定外の動きにスタッフの間に不穏な緊張が走る。未来の可能性を秘めた割れ目に指を入れる。それを思い切り左右に引っ張ると、ブチブチッとボタンが四方に弾け飛んだ。スタジオの全員が息を飲む。上半身裸になった小宮は思い切り息を吸い込み、内臓ごと吐き出すような勢いでまくし立てた。
『プリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリプリ』
腹の贅肉をプリプリ震わせながら叫ぶ。思考よりも速く、言語化の手続きを省略して口から音が出る。中年の醜い肉揺れは地面を震わせ、溺死寸前の日本列島に心臓マッサージを施すがごとき必死さで続いた。黒マジックで書いた〝ス〟の字が、スタジオの強い照明を浴びて汗とともにキラキラ踊る。――からの、『スダチざかりで〝ス〟みません!』
「ふっ」
嘲りに近いものだったのかもしれない。それでも、キムラタケシの口から小さな笑いがこぼれた。国民的〝ス〟ターの笑いが裏付けとなり、安心した客席にどっと笑いが起きた。
ちょうどそのとき、スタジオから一キロほど離れたところで路肩をグリグリしていた老人に変化が起きた。道路の割れ目に差し込んだバールのようなものの先端が淡く光っている。「おん?」割れ目を覗き込んだ老人は思わず声を上げた。そこには黄金に光る何かが埋まっていたのだ。その何かは、時は満ちたと言わんばかりに穴から噴き出し、空へと立ち昇った。地面から天へとつながる光の柱。その光がどこへ向かうのか、本来ならば老人の知る由もないことである。ただ彼は知ることができた。彼の身体が光とともに天へと昇ることによって。彼は見た。その光の筋がはるか遠く、鳴門海峡の渦潮の中に吸い込まれていくのを。それは黄金の架け橋のようでもあり、天からの放尿のようでもあった。老人はそれこそが彼の求めていたものであることを知る。彼の身体は透明になり、最後に小さな光の粒となって、新幹線のトイレよろしく「ジュボッ」と鳴門の渦に〝ス〟い込まれた。
はだけたシャツを安全ピンで留め、きっちり楽屋挨拶を終えてから小宮はようやく帰路に就いた。心地よい達成感があった。すでにSNSではちらほらと反応が出始めている。小宮は素早く否定的なコメントを書くユーザーを全員ブロックした。すると不思議なことに肯定的なコメントだけが残った。駅へと向かう帰り道で小宮は老人の姿を探した。今日の活躍を彼に知ってほしかった。未来が少しだけ切り拓かれたことを彼に伝えたかった。しかし、老人がいた場所をいくら探してもその姿を見つけることはできなかった。
小宮はふと路肩の地面を見やった。老人がグリグリしていたはずの割れ目がなくなっている。「あれ?」思い返せば現実感の希薄な光景ではあった。生放送のプレッシャーのあまり、この世ならざるものを召喚してしまったのか。でも彼の存在が背中を押してくれたのはまぎれもない事実だ。熱くたぎるものが胸に残っている。まだやれる。まだやれる!
「了解、妖怪、瀬戸内海!」
小宮は手応えを反芻するようにうなずき、今夜はスダチ風呂にしようと決めた。
〈了〉
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