眠れぬ夜に-14-
第14夜
『狐火』
冷房のきつい得意先の会議室を辞し、蝉の声に押されて駅までの道を遠回りしながら報告を打つ。ざらついたまま送信するとまもなく返信が届いた。スーツには体温がこもり視界もぼやけてきた。こんな時は一休みして水でも飲むべきなのだが、そのまま私は蝉の声がひときわ大きく響く方に足を向けた。熱と蝉の声に包まれている方が心地よいのはいつものことである。きっと今夜の会議もいつも通りだろう。電話をポケットに入れ顔をあげると、赤みを帯び始めた陽の光が木々の形を切り抜いていて、それが手を繋いでいる人々に見えた。
丘を登る小道は思いのほかきつかったが夕陽には間に合った。オレンジからピンク、パープルからダークブルーへ、そのあいだに一瞬見えるグリーンが好きである。登るあいだ、変化する色がずっと見えて飽きさせなかった。開けた丘の上からは街の形が見え、向こうには海があった。通い慣れた街なのに知らなかった。いや、忘れていた。風は涼しい。こもった熱はすっかり抜けている。さあ、と会議を思い出して電話を取り出すと丘の上は圏外で、残っている着信は女からだった。暮れた空には満月がでていた。
月はまだ低く足もとは見えない。木々の間に見え隠れする街の明かりを頼りにおりるが、案の定迷った。迷ったが明かりは見えている。狭い町の小さな丘である。一番近いと思う明かりを見定めたら、それを目指せばいいだけだ。ほどなく道の先に何かを照らしている明かりがあった。ふもとにあったカフェの看板だろうか、であれば町の外れに着いたことになる。しかし、近づくとそれは古い椅子であった。
椅子は木製で座面と背もたれにビロードが張ってあり、明かりが装飾に彫られたレリーフの印影を深くしていた。歩き通しだった私はその椅子に腰をかけ深くため息をつくと、燭台を持った女給が現れた。
「いらっしゃいませ」
燭台の火は角砂糖に垂らしたブランデーを灯したような縦にたなびく炎で甘い芳香を帯びていた。やがて暗がりの中に一枚板のテーブルが浮かぶ。その先は谷が細く開いている。少々奇をてらってはいるが、座り心地のよい椅子と古色然としたしつらえは居心地が良く、咽の渇きを思い出させた。
「かしこまりました」
女給は燭台を置いて消え、野良猫だろうか、足もとを殺気のない獣の気配が抜けていった。それも趣だった。女が愛した猫。女の好きなものを好きになろうとした男。その猫はもういない。
「おまたせしました」
女給になついた猫だろう、女給があらわれると気配がする。ふさふさしたしっぽの感触が甦る。鮮やかな珈琲の酸味を感じたと思うと、みるみる谷の先が見えてきた。そこに見えたのは昨日の女と私だった。
昨日の私は不満そうに、女が差し伸べた手を嫌った。女も私の謝罪が気に入らなかった。ささいな、ありふれた光景は何度も繰り返された。私たちはきっと、とるにたらない。そのよるべなさが女といるときは悪くなかった。愛情が何かは知らないが、喜ぶ顔が好きだった。小さく弱い私を嫌いにはならなかった。しまった、と思わず口から出た。
その時、言葉は声にならず炎になった。炎はしばらく漂ったあと、あたり一面を照らす閃光を放ち消えた。
炎の残像とともに椅子もテーブルも消え、気がつくと街から丘に続く小道の曲がり角にいた。耳にはまだ自分の声が残っていた。
「しまった」
いやまだ間に合うかも知れない。私は電話をとった。
第14夜
『狐火』
了
ノンアルで晩酌のまね事をするようになって久しい。その日の事を手のひらの上に出して見たりクズカゴに入れて見たりもするし、考えても仕方のない事を取り出してきて結局は「仕方ないか」としまい込んだりもする。何も解決しないけれどそれがまたよい。相手がいればたわいもない話で時間を潰し、頃合いで引き上げる。飲んでる時にこれが出来たなら、なんて後悔も案外悪くない。
それでももうちちょっとだけ、と感じた時は小さな物語を読む。小説でもエッセイでも漫画でも。最近は昔書いた自分のテキストを眺めるのも好きだ。私自身、驚くほど忘れていて新鮮である。アル中の利得と言う事にしよう。
暫く、その雑文をここに披露させて頂く事にします。眠れぬ夜の暇つぶしにでもして頂けたら幸甚です。