見出し画像

エシカル消費について思ったこと

先日、シン・ウルトラマンを見に行ったら唐突に幼少期の事を思い出しました。幼少期の体験についての記憶、そこからなんとなく数年前に感じたエシカル消費?への違和感をさらに思い出したので、まとめてみます。

エシカル消費の話

2~3年前くらいにおそらく仕事か子供の学校関連でエシカル消費という言葉を聞いて、一定の賛同といつものマッチポンプ感が残った。

関連する活動を進めている先頭は若い世代。過去へのしがらみが無い。

逆に、過去を知っている自分が感じるのはマッチポンプ感→
「いや、その状況作ったのお前ら(西欧)だろ、急に正論言ってどうしたの?あぁでもいつもこういう話しするよね」
こう感じてしまうのは年代的なギャップで、それはそれで仕方ないと思う。

思ったのだが、どうも消化しきれないものがあったので、それがなんだったのかを考えてみたい。

価格が安すぎる

自分は40代で「買い物」の原体験30年以上前にさかのぼる。当時の記憶や体験を踏まえて考えると「今の消費はサイクルが早く価格が安すぎる」と思う。
(ただし、当時の消費形態が良かったか?というとかなり疑問は残る)

1990年代

30年前がどういう状況だったかというと想像以上に今と違うのだが、今の低品質大量消費スタイルの開始時期だった。開始時期なので、まだ産業構造は変わらず70~80年代が温存されていた

100円ショップの展開が始まったのがだいたい1990年くらい。ユニクロの展開時期もこの頃のはずだが、関西スタートだと思うので関東在住の自分はよく知らない(ちゃんと把握したのは1990年代後半からと思う)。

当時の商品価格は、アパレルで言えば今のファストファッションとかの価格帯の1.5~3倍くらい(ものによってはもっと差がある)。

日本は物価があまり上がっていないので、たとえば今は1000円でそこそこの品質のTシャツを買えるが、当時は3000円くらいが妥当な価格帯だった。

もちろん当時も1000円のTシャツはあったと思うが、端的に「低品質のもの」というイメージであえて買っていなかったと思う。「そんな安物やめなさい」と、特別裕福ではない家庭だった自分も親に何度も言われた記憶がある。同年代の方はどうだろうか?

1990年代後半に自分は初めてパソコンを買ってもらったが、当時の製品を見るとほとんどのパーツは日本製だった。PCのパーツに「Made in Japan」と書いてあった。(なのでまだ動く)アパレルもだいたい同じような状況で、外国に生産拠点が移っていなかったということがあると思う。

生産地が身近にある、ということの本質

国内生産で何が違うか?という点でいうと、経済・物価の差や労働者の賃金差とかはよく言われるわけだが、生産がほぼ国内だった最後の時代に子供の頃を過ごしていた身からすると、何よりも感覚が違うのは「消費するモノと自分が地続きかどうか?」の感覚が持てていたか?というところ。

知っている土地(行ったことはなくても少なくとも国内のどこかの工場)で作られた商品を買って、使っている。その背景には、生産者がいて、彼らは自分と同じ文化圏で生きている。。。。とまで当時の子供時代に考えてはいなかったが、おそらく日用品を使う前提としてモノと自分が地続きの感覚があった

知っている人、たとえば友達の親とか、親類の人とか、そういう中に工場勤務の人がいた。今も当然いるだろうが、それが重工業や食品工場だけでなく、軽工業まで多数含まれていた。

日常で使う色々なもの、実質ほとんどのものと自分が関係がある、という感覚をあえて教わらなくても自覚できる状況だった。

「(知っている人が)仕事としてやっているモノづくりの中でできたモノを使っている。それは当然それほど安くは買えないだろう。だって、Tシャツ一枚100円で売られたら僕の知っている人がお給料をもらえなくなる。3000円して当然だ。大事に使わなくてはいけない」

滅茶苦茶裕福で金銭感覚皆無、という人でもない限り、今の40代以上の人が「エシカル」と言われてすぐにピンとこないのは、子供のころから感じていた当然の感覚がどこかで残っているからではないか?と思う。

もしくは「いや、グローバル化だとか何だと言って工場を海外に移しておいて今さら何を言ってるんだ?」だろうか。

意識転換に手順が必要

どちらでもよいのだが、その今さら感のある意識から

  1. どういう経済状況で誰がどういう転換・意思決定をした結果、今の産業状況になっているのか?…などをいったん頭の外に置いて

  2. 現状の問題だけに目を向けて、あるべき状態をあらためて考えて(それって元々の状況だろ、と思わずに)

  3. エシカルという言葉に向き合えるか?

が問われているのだなぁと思う。

例えば消費者庁のサイトを見ると

「地球」というスケールで社会を考えると、私たちが多様な動植物と共存していることや多くのエネルギー資源、原材料、食料品などを海外から輸入していることに気付かされます。

などという事が書いてあって。

いや確かにエネルギーはそうだけど、それ以外の産業は国内生産もある…ちょっと昔にはあったわけで。
「気付かされます。」って誰視点なのさ、と思う。

しかし同時に「ルールメイクが必要なときは、こういう大上段(宇宙的視点)に立ったうえで誰も反論できないことを言えば良いのだなあ。交渉術だなぁ」とも思うわけです。

こういうことを飲み込んで、大人として、未来のある世代に向けて顔をあげないとなぁ、とか。そういう感覚になって、そこがスタートだと思います。

コミュニティに怪獣が出てきた

最後に、なんでこんなことをシン・ウルトラマンを見た後に考えたか?という話。

端的にいえば、昔見たウルトラマンシリーズ(昭和の)を思い出した。

当時の怪獣は特定のコミュニティ、たとえばどこかの町や村に出現していて、作品内のドラマもその地域の人、特に子供の視点が入っていたりもした(ウルトラセブンとかは大人視点が多かった。なのでタロウのイメージかな)。

そういう生活と怪獣が近い世界観に対して、現代の「シン・ウルトラマン」で作品化された世界観では、日本と世界、地球と宇宙、日本と怪獣、人間とウルトラマン…など、複数の対比で何度も視点が切り変わった。

視点の位置がかわれば、スケールも変わる。見え方は複雑になる。

そういう視点を持ってはじめて気づく過去を、振り返ってみた感じです。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集