破壊ランナーは神話
※本記事は2017年5月1日に別媒体で掲載した内容を転載したものです。
公式サイトがなくなっていたみたいなので、一部URLを変更しています。
破壊ランナー2017を観てきましたよという記事。
主観に基づいて書きましたので、私個人の考えが大いに反映された感想文です。
つらつら書いているからさぞやたくさん観たんだろうと思いきや、破壊ランナーを観た回数は全シリーズ通してたったの2回。
本編中のことを書く部分もございますが、大まかな旨で書いておりますので、決して正確ではありません。
記憶によってゆがんだ部分や、主観に基づいて捻じ曲げられていくような過程を楽しみましたので、レポートと冠しておりますが、エッセイ的なレポートではありません。
観劇済みの方向けです。全編ネタバレ・ご自身で観られたことを前提に書きましたので、ご承知おきください。
なお、キャストついての感想は一部を除き省きました。
※約10000字くらいあります。
はじめに
演劇をデザインすること
七色のソニックランナー
豹二郎とスパイク、本能と理性。あとライデン
キャデラックとカルリシオ
C3-9000
豹二郎とリコ
ランナーたちそれぞれの機械性、アロイとランナーたち
おわりに 2017年と破壊ランナー
はじめに
SHATNER of WONDER #5 破壊ランナーを観てきた。
わたしにとっての豹二郎ダイアモンドは、坊主頭でワイルドなアスリートだった。腹筋善之介氏である。
豹二郎には女性のヒロインがいたし、レースDJの少年を演じていたのは女性だった。佐々木蔵之介氏がTシャツでソニックランをしていた気がする。
わたしが初めて触れた現代演劇というようなものは、破壊ランナーだった。当時は高校生で、演劇というとまさに芝居がかったような言い回しですぐに歌を歌いだすものだと思っていたし、そんな演劇の面白さがわからなかった。破壊ランナーは、高校の部活で勉強会と称して先生が持ってきたDVDだった(もしかしたらビデオだったかもしれない)。こちとらとっとと練習したいのに、と思って、めんどくさいし興味も沸かなかった。
破壊ランナーは、めちゃくちゃ面白かった。
パワーマイムは、マイムをしていても、全部しゃべっている。「ミサイルがどーん!」ともはや言っている。ふざけんなよと思いつつも、それがめちゃめちゃ面白いので、結局食い入るように見たし、映像を観た季節やその年何をしていたかは思い出せないくせに破壊ランナーというタイトルだけは覚えていた。それから順調に舞台芸術に身を投じ、自分が舞台に立つようになって、アホな高校生だったので破壊ランナーの衝撃は次第に忘れてしまった。
破壊ランナーのことを急に思い出したのは、高校を出て、大塚氏の演劇を観た日だった。小道具を使わない演出、ユニゾンという独特な群唱。これだ、と思って、一気にのめりこんだ。
思い出して破壊ランナーのことを調べてぎょっとした。佐々木蔵之介氏が出演していた破壊ランナーは1993年と1995年で、生まれているか、ギリギリ生まれていないかだった。自分が発生すらしていない時代にあんな面白いものがあったのかとも思ったし、西田氏が現在バリバリ演劇を作っていることにもなぜか驚いた。伝説が生きているとは思わなかったって感じだった。
さてそんなわけで、ようやく生で見る機会に恵まれて感無量。何せ私の破壊ランナーは生まれた年くらいだったし、それから現在今まさに観ることができるなんてまさかこんな日が来るとは思っていなかった。大げさではあるけれど、わたしにとって破壊ランナーは現代演劇の祖であり、リビングレジェエンドなのである。
演劇をデザインすること
池田氏が絵具塗れで焦った。青を基調としたwebページだったので、なんだかクールな未来のソニックランナーたちが現れるのかと思っていたけれど、カラフルで、しかも脱いでいた。芸術的だなと思ってはいたけれど、パンフを開いて更にわくわくし(これについてはパンフレット最後のほうの、美術さん・衣装さん・ヘアメイクさんについての解説を確認されたし)、客席に入って圧倒された。ナスカの地上絵と祭壇があった。
破壊ランナーは未来の話で、ランナーたちはある程度機械と同調しながらソニックランを行う。そこでナスカである。これはどういうことなんだろう。
後々わかることだが、今作のキャラクターはみな生物のモチーフを持っているようだ。リッチモンド三兄弟は、作中で言及もされている。それからたぶんリコも。
今作では、太鼓のような重厚感のあるサウンドや、祭壇・地上絵のようなモチーフ、そして俳優たちの生々しさを伝えてくるビジュアルで、未来の音速という、SFのような世界観でありながら、「生命的」「原始的」な演劇全体のデザインを行っている。もちろん、「生命的」「原始的」という内容は本編にもわずかに干渉するが、基本的に話の本髄にぶつけるようなものではなかったと思う。だってソニックランの話だし。
演劇では、中にいる俳優や、本編のシナリオに力を注ぎがちだが、こうして、包装するように、演劇全体をデザインするということも非常に重要だ。
破壊ランナーでは、本編のシナリオと少し離れたところで、演劇作品全体をデザインし、プロデュースしているように感じた。それによって、入れ子構造のように本編のシナリオが独り歩きしないような効果もあった気がして、それから、ただ単純にSF未来の作品にそんなデザインを丸ごとぶつけてきたのが新鮮だった。
そういえば祭壇という言葉がなんとなく引っかかっていたけれど、ちょっと古代オリンピックみたいな感じでもある。スポーツはそういえば神にささげるようなものだった。祭壇。納得。
七色のソニックランナー
虹色。しかもぐるぐる回っている。舞台面にあてるムービングライトが、カラチェンしながら回っている。ド派手だなと思ったが、すぐに理解した。ソニックランナーそれぞれに色が割り振ってあったのだ。レース中の照明演出という言葉を聞いていたので、どんなものなのかと思っていたけれど、これが面白かった。
キャデラックとカルリシオの登場シーンから、その演出は行われる。キャデラックはミントブルー、カルリシオは赤。それぞれ独壇場のときは個人の色があらわれ、レースでぶつかり合うときは二色のライトが交互に差す。基本的には二色の交互打ちでレースの具合があらわされ、ソニックブームは白で飛んでくる。レースの優劣もライトを観ればある程度わかる。
この二色というのが面白いもので、色には関係性があるから、そのコントラストで舞台上の印象が変わる。豹二郎のカラーはゴールドだが、彼が必死になっているとき、ライトは赤く染まってくる。赤は危機の色だから、切羽詰まっているのがわかる。それに、緑色が入ると、それは最強のコントラストだ。豹二郎いよいよやばいんだなと思うし、観てるこっちも眩暈がしてきそうだ。
そんなわけで、たくさんのソニックランナーがひしめき合うコースのスタート地点ではライトは七色なのである。混ざり合いそうで混ざらずに様相を変えていくライトは、それだけでレースみたいでわくわくする。
ちなみに、破壊ランナーおなじみのプロローグでは、青い画面になるわけだけど、青がずいぶん深くて少し驚いた。青と一口にいっても、いろんな青があるものだ。それから、2020年のウサイン・ボルトの登場にも、オッと思った。私がもともと見た破壊ランナーに、彼の名前はなかったので。
豹二郎とスパイク、本能と理性。あとライデン
鳥の話にもあるように、本編で描かれるのは「機械と生身の相克」だ。
豹二郎は、自分の走る理由について「知らん」と吠え、走ることしかできないのだと言って走り続けている。スパイクという科学者は、自身の理論に絶対の自信があり、その理論を突破するものを許さない。
二人は対極にあって、豹二郎は生身であり、本能的で、現実の世界にいる。スパイクは機械を司り、理性的で、理論の世界に生きている。
どうも私が受け取った部分はここだったらしい。今後、機械と生身、理性と本能といったキーワードに基づいて、記事を書きすすめることとする。
初対面で、スパイクは豹二郎に、「あなたが言っているのは思い込みの理論で、私が話しているほうが現実にある」という旨のことを語る。その時はまさにその通りなのだけれど、それが作中で逆転してくるのが面白かった。
少しだけ役者さんの話をするけれど、池田氏の豹二郎はとにかく凄みがあって恐ろしいくらいだった。なんか別の生き物みたいだった。私の豹二郎ダイアモンドは腹筋善之介氏だと思っていたけれど、池田氏の豹二郎もすさまじいくらいに豹二郎だった。劇場での彼について細かく語ると、かえって薄っぺらくなるので控える。
さて、豹二郎とスパイク。このふたりをつなぐランナーがライデンなのだけど、ライデンはもっと顕著に作中で変化していく。アロイの半メカランナーとして走り、クールなライデン。彼はチューンナップを繰り返すうちにスパイクの言うことをきかなくなる。つまり、理性から本能へと変化していくわけだ。物語終盤でライデンは言う。「おれが速くなるのは、おれより速いランナーがいるからだ」。もはや理論とかじゃない。何音速でようが、何音速の走行が可能とされていようが、目の前の速い奴は抜きたいのだ。最初はドヤ顔でクールに走っていたというのに。
ランナーたちが次々とアロイの勢いにのまれて移籍し、改造されていくなかで、豹二郎は最後まで生身だ。もちろん、ある程度コイルをはじめとする機械部品は積んでるけど。その生身の豹二郎が、「抜かれたやつは抜き返す」ということだけを持って、走ってきて、理性と機械によってパワーアップしたはずのランナーたちを次々抜き去っていくシーンは爽快であるとともに考え込んでしまう。
IT化機械化が進み、便利になっていくわたしたちの社会の中で、でも、いつか発明の限界が来たときに、豹二郎みたいな人が現れて、既存の理論を全部ぶっ壊してしまうんじゃないかと。
キャデラックとカルリシオ
そういえばカルリシオは女だった。赤い女ランナーカルリシア。小劇場の女優さんはときどき男よりも男らしくかっこいい。
さて、もちろん、しっかりと覚えているのはこの二人だ。染まらぬ独自の美学を持ち、豹二郎に助け船を出してくれるキャデラック。勝利のために走り続け、機械と化して散っていくカルリシオ。高校生の時一度見たきりの破壊ランナーは、中身をしっかり逐一覚えていたわけではないけれど、キャデラックの「おい、チャンプ。あんたいま、0.8音速出てる」という言葉は、デジャブのように思い出せた。
キャデラックは何にも縛られない本能の男だ。走りたいから走り、走りたくなくなったらやめる。彼は勝利に執着しないので、アロイの手にかからないまま、豹二郎の助けになる。対してカルリシオは、がんじがらめになった理性の男だったのかもしれない。豹二郎に勝つという役目を選んだがために、彼はその目的のために自らを律してひた走ることになる。そうしてそれが彼をアロイへ飛び込ませ、破滅させてしまった。
彼らは端的に、生身・本能的であることと、機械・理性的であることの違いを洗い出し、まざまざとその末路を見せてくれる。カルリシオの死亡は、豹二郎のバーストというイレギュラーによるものだから、末路というにはおかしいけれど、肉体的に死なずとも、カルリシオというランナーがあのサーキットで死んでいたことはだれの目にも明らかだ。
キャデラックとカルリシオの間には目立った確執は描かれないけれど、二人の特徴的なランナーが、それぞれ豹二郎に働きかけてくれるという仕組みが非常に見やすく、赤・青の二色で端的に表わされていたのもうれしかった。個人的には、キャデラック・カルリシオ・豹二郎でセンターみたいな感じだ。ライデンは追加戦士。
C3-9000
新キャラである。速三のライバルらしくて、DJ型メカだ。観る前から期待はしていたのだけど、観たら本当によかった。
先述の生身と機械の相克は、レースの中だけの話ではない。早井とC3のぶつかり合いを通して、わたしたちは非戦闘員(非ランナー。一般人)の戦いを垣間見ることができる。C3は非常に優秀で、その喋る速度は早井を上回る。その結果、彼は初めて機械としてレースDJをつかみ取ることができた。スパイクの印象から、機械は悪であるかのような印象を受けてしまうが、C3自体は穏やかな機械である。
物語中盤のC3の台頭によって、豹二郎とスパイクの戦いを観ている我々は、擬似的に機械と理性の勝利を見ることになる。時代は変わり、劣者は排斥されていく。アイスクリーム売りに身を落とした早井の姿は、引退を噂された豹二郎のように、そして、自身の夢を他人に託したリコのようにも見えてくる。
さて、C3のよいところは、人間と機械の共存の可能性をあらわしてくれる所にある。ホログラムによる機械独自の実況を行って活躍していたC3だが、豹二郎とライデンのデッドヒートで、理論を越えた3音速がたたき出され、処理能力の限界を迎えてしまう。そこへ、早井が飛び込んできて、彼らは二人の力を合わせて実況を続行するのだ。
本編の本軸では、生身の豹二郎と機械のスパイクが激しくぶつかりあっているところで、こんなふうに生身と機械が手を取り合ってくれるのはとてもうれしいし、ある種の救いになってもいると思う。
豹二郎とリコ
リコはヒロインである。揶揄しているのではなくて、もともとリコは女性で、リンコ・スカイウイングという豹二郎の恋人だった。今作では女性キャストがいないことから、豹二郎に恋人はいないんだなと落胆もしたし、墜ちた豹二郎をだれが激励するのだろうと心配していた。ちなみにアホだったので、リコがその役割を担っていることに観劇まで気づかず、リコのことを新キャラクターだと思っていた。すみません。そして、リンコのことをきちんと覚えていなかったために、コーチや元ランナーとしての側面も忘れている。
本作のリコは、豹二郎の師匠だ。村田氏の高身長やミステリアスな雰囲気が魅力的である。彼もまた、スパイクとは違うベクトルで理性的な男で、本能的な豹二郎とはぶつかり合い、最後はアロイに改造されてしまう。
豹二郎とリコは鳥の話をする。豹二郎は生身の鳥を見て、その生き物に惹かれるが、対照的にリコは生身の鳥を知らない。動物園にいる、ロボットの鳥が主流だからだ。思うに、リコはあの話をしながら、すでに機械化の改造を受けることを決心していたのだろう。だからリコは生身の鳥に興味を示さない。リコはとても賢いから、一度引退した身で再びトップに躍り出ることは不可能だと気づいていたと思うし、そうであれば機械の力を借りてでも自分の夢を実現したかったのだろう。もし、豹二郎が機械化を知ったらすっ飛んでくると思ってそこまでしていたのならヤバい男だと思う。真偽は定かではない。
そうして最後、「見たのかも、でも、忘れた」と言ってしまうリコが切なかった。彼の名前はスカイウイングで、空を飛ぶ翼があったに違いないのに。西田氏は破壊ランナーのきっかけの話をするときに、「鳥が飛ぶなら、人間が音速で走ることもできると思った」ということを述べている。その鳥こそがリコなのに。
初期の豹二郎は奔放で、リコの夢の実現に協力的ではない。自分を抜けるものはいないと思っていたからだ。その豹二郎の慢心が無理な走行からのライデンとのデッドヒートを起こし、豹二郎を故障へと導いた。夢の実現が遠ざかったリコは、機械になってでもそれを果たそうとする。すべては豹二郎のために起こった出来事とも言えて、何とも言えない。
豹二郎とリコは直接対決したことはないけれど、たぶん豹二郎にとってはリコが、概念的に「自分より速いランナー」だった。それは、ライデンが豹二郎に叫ぶ「おれより速い奴がいるからだ」というのと、同じだ。
リコがラストシーンにあらわれて、豹二郎はリコにまっすぐ向かっていく。そのとき、どんなに速度を出したところで、豹二郎は孤独を感じない。だから豹二郎は止まらないし、その結果加速し続ける。
冒頭、豹二郎が聞いていた音だけれど、私は孤独のことかなと思っている。世界最速、だれも同じ速度で走れない、世界にただ一人の男。1.71音速の世界に入った瞬間、豹二郎は世界に一人ぼっちになり、それ以上の加速ができなくなってしまう。
ラストシーンではそうではない。機械化したリコが、前を走っているからだ。概念的に追いつけなかったランナーが物理的にサーキットに登場し、孤独でなくなった豹二郎は、足を止めない。「おれを抜いていけ、豹二郎」という師匠の言葉は、孤独の世界に飛び込むことになる豹二郎への激励であり、彼自身の夢の実現の瞬間だ。あれ、やっぱり豹二郎をサーキットに引き戻すために改造を受けたんだろうか。
ちなみに、1990年代版のリンコがどうなったのか、私は思い出せないままだ。もし恋人とデッドヒートする豹二郎なんて見てしまったら泣く。早急に確認する必要がある。アイビス・プラネットのHPから、過去の破壊ランナーが購入できるそうので、ご利用ください。
※2024年加筆// HPっていうかYoutubeがあります。
ランナーたちそれぞれの機械性、アロイとランナーたち
冒頭に書いた理性と本能、機械と生身の相克だけれど、ランナーそれぞれがさまざまな向き合い方をしている。
理性を求めて走るランドロン皇子、機械的に生身を消費していくビブラート。生身のハンデを機械で補うブルーナイト。彼については、終盤かえって足を引っ張られ、それを手放すシーンまで存在する。リッチモンド三兄弟は、生身でありながら機械的なプレーで頭角を現したが、終盤にはアロイへの移籍をしてしまった。彼らはリタイア寸前で心の所在を叫んで散っていくけれど、機械の中に残る生身というか、そんなところが見えて面白い。ピラニアは本能に従って生身でレースに挑んでいるが、穏やかな彼ですらあんな扱いを受けてしまうわけだから、キャデラック・豹二郎と並んで生身が劣位におかれつつある社会であることに間違いなさそうだ。ライデンとカルリシオは、鏡のように機械から生身へ、生身から機械へと変化していく。
ビブラートの話をする。彼はドーピングをして走るランナーだけれど、唯一描かれているのは、彼が本能と生身によって摩耗していくという点だ。彼は子供に大人気のランナーで、「世代交代は生物の本質」という本能に踊らされながら、次世代の踏み台として科学の力で加速し、生身をすり減らして走る。彼は本能のために科学を用い、自身の生身を摩耗させる。この構造で、本作がただの本能賛歌ではないと伝わってきて素敵だ。なお、物語のラストシーンではビブラートは結局子供たちのために走ることになるのだけど、彼自身の心はそのことにまだ悩んでいて、でも結局子供たちを身を呈して救ってしまう。そうして先代と同じように散っていくビブラート二世の姿に私は熱狂するけれど、同時にそれはひどく残酷なことでもあり、彼は結局種の世代交代のための踏み台にすぎなかったというふうに、私自身それを許していたのだろうか。機械の奴隷になっていくアロイのランナーたちと比較して、ビブラートは本能の奴隷である。
では、ランドロン皇子に移る。彼には明確な目的があり、理性のために走るランナーだ。その理性的・理論的な目的のために彼は過酷なトレーニングに挑む。彼もまた生身をすり減らし、理性を信じて走っている。その彼が、理性をかなぐり捨ててわからないままに走り続ける豹二郎に抜かれるシーンは圧巻だ。人間はみな目的のために動いているという思想に、私は共感できる。目的のために努力し、行動し、結果として目的を達成するというプロセスは非常に理性的・理論的で整然としている。それなのに、知らんわからんと吠えながら狂ったように走り続ける本能に追い抜かされてしまっては、やりきれない気持ちにもなるだろう。彼自身が、自分の純愛に、理性や目的、思い込みといった枷、そして物理的なルールを付けてしまったがために、彼は迷走し、理性的な目的と、彼の本心が剥離してくる。終盤、一度はプロポーズに失敗した彼があきらめずに飛び込んでくる場面では、プロポーズするために優勝しなくてはならないという理性ではなく、負けたとしてもプロポーズをあきらめたくないという彼の本心が勝っている。彼もまた理性やルールと、本人の本能的な部分を争わせていたといっていいだろう。
リッチモンド三兄弟はどうだろう。昆虫のように一定の動きをし、ブルーナイトの催眠にかからない唯一のランナー。彼らのモチーフは、いうなればミツバチみたいなものなのだろうか。ミツバチは一匹のスズメバチを殺すのに、仲間を何匹も犠牲にする。彼らは生身で走ってこそいるが、その心は厳しく律せられ、頑なな理性に縛られている。同じ動きをする彼らにとって、三人で一つの当主としてリッチモンド家を守ることなど容易であるというわけだ。リッチモンドの見どころは、やはりラストシーンの、ミサイルの破片によって兄弟が欠けていくところだろう。今まで、理性的に役割を割りふることで力を保ってきたリッチモンドが、その両翼をもがれてしまう場面だ。力を保つためにつくった理性の盾が失われ、本心・本能を叫びながら、それでも走っていくジョー・リッチモンドの姿。リッチモンド三兄弟は、理性の殻が破壊され、本能を叫ぶという、ほかのランナーたちとはまた違ったやりかたで、客席に理性と本能がぶつかり合うさまを見せてくれる。最後のレースでは、リッチモンド家はアロイの改造を受けているはずだけれど、そんなに影響があるように思えなかったのがひっかかった。もともと理性的だった者は、改造されても影響が表面化しないのだろうか。あと、リッチモンド家のフォームは体幹ぶれないと思うけど腕の空気抵抗がすごそうだし、前方磁場に対してもなんか抵抗を生みそう。頑張ってほしい。
ブルーナイトもいささか特殊だ。彼は生身にハンデを抱えている。しかし、そのハンデを逆に活かし、圧倒的に有利なフィールドを持っていた。彼自身さほど不自由しているようには見えなかったけれど、最後のレースでは義眼を携えて挑んでいたから、彼なりに自身のハンデに思うところはあったのだろう。ところが、レース中、彼は新しく得た視界を活かしきれず、かえって今まで培ってきた聴覚や嗅覚を鈍らせてしまう。ミサイルの破片に脅かされた彼は、義眼をかなぐり捨て、生身で混乱するフィールドを駆け抜けていく。ブルーナイトには失礼だけれど、爽快だ。機械と生身が相克するシナリオの中で、彼は彼自身の判断に基づいて機械と同調する。けれども、結局生身でも十分戦えたことに気がついて、機械を捨てるのだ。リアルな彼のことを考えればハンデのための治療や技術を捨てることを爽快などとは言えないけれど、機械と生身をぶつけ合う本作の中では、非常にはっきりと機械社会からの脱出を図っていて、豹二郎やキャデラックなど、生身のランナーたちを応援している身としてはうれしくなる。
ピラニアはわかりやすい。彼は一切機械に染まらず(もちろんコイルを積んではいると思うけれど)、自らの生身や、家族、森林など、自然的・本能的なもの為に走っている。彼はもっとも生身や本能に近いと思われるが、彼の監督は、ピラニアに冷たい。サーキットの外のピラニアは、檻の中で角砂糖を舐めて暮らしている。それは、彼が本能的なランナーであることとともに、彼の出自も大いに関係しているだろう。このあたりをもう少し掘り下げるべきなのかもしれないが、原住民族にまつわる話題に明るくないので、ここでは避ける。
おわりに 2017年と破壊ランナー
演劇を観るとき、どんな作品でも、最近考えることがある。なんでこの作品は、2017年の日本で上演されるんだろうということ。これから観る作品が、現代の日本社会に、どんなふうに関わっていくんだろうということ。演劇作品を観た感想は人それぞれだし、みんな自分の感性に基づいて感じるところがあるのだろうけど、エンタメでもなんでも、やっぱり今を生きる人たちに、なにかしら関わっていてほしいと思う。
私が2017年の破壊ランナーを観て感じたことは、生身と機械のぶつかりあいだった。IT化されて便利になっていく物の豊かな社会に生きている自覚はあって、私たちもいずれ、機動力を上げるためにコイルを積むのかもしれない。これは、破壊ランナーのメインシナリオであるレースの勝敗からはずいぶん斜め上な受け取り方だったかもしれないが、べつにかまわない。
感想文をつらつら書いていたが、別にまとめなんてものはないし、私自身まだ破壊ランナーのことを漠然と考えていたい。あの作品が1993年の人たちに働きかけたものはなんだったのか。2017年の人間にもたらすものは何なのか。破壊ランナーは、歴史に残る作品だ。その作品を観て、何も考えずに、たのしかったということだけで終わらせてしまうのは、あまりにも勿体ない。
豹二郎はどんなときに現れるんだろう。腹筋善之介氏の姿を借りた豹二郎も、池田純矢氏の姿を借りた豹二郎も、最適な時にあらわれて、音速の向こうへ走って行ってくれる気がする。
豹二郎は不思議だ。1.71音速で足を止めていたはずの彼は、ラストシーンではたった一人、孤独な3音速の世界を走っていく。あの時彼は誰と走っていたのだろう。誰のために加速し続けたのだろう。それがわかれば、また何か視界が開けるかもしれない。
最後までお付き合いくださりありがとうございました。
twitterかなんかで拡散してくださるとなにかの冥利につきます。
2024年の再編によせて
ずっと個人ブログに置きっぱなしだとこの文章を無くしてしまいそうだったのでnoteに移設しました。
記事を書いた2017年からの7年間の間に、作者の西田シャトナー先生の目にとまり、大変身に余る光栄なお言葉をいただいていました。
初めて本作に出会った高校生の時の自分に想像できたでしょうか?
見つけて頂いてありがとうございました。この記事も私の宝物になりました。