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“ルール”の在り方。

毎日noteと言いつつ、昨日は更新が途絶えてしまった。

どうしても更新する時間を設けられなかったからなのだけれど、続いてたものが途切れてしまったのはやはり少し…いや、とても悔しい。


更新したあとの「◯日連続更新!すごい!」というようなnoteからのコメントが地味に嬉しかったから、リセットされてしまったことも残念に思えているのだろう。

とは言え、ルールでガチガチに縛ってしまうのは可能性と多様性を狭めてしまうので、あまり気にせず、しれっと、さも更新がずっと続いているかのようにまた今日もnoteに打ち込んでいる。

そもそも、「ルールだから」と一刀両断するのは、考えることを放棄していることと同じだからあまり好きではない。
理不尽に抑圧できてしまう言葉で、なにより立場によっては非常に簡単に服従させることができてしまう。そうすると従わせられる側には不満が残る(或いは発生する)し、その不満は組織や関係性を円滑に進める上で足枷にしかならない。
ここで必要なのは服従させることではなくて、説得することでもなくて、納得してもらうということで、「ルールだから」の一言で済ませるのではなく、なぜそのルールが必要なのかという“背景”を開示することではなかろうか。




「noteを始めてみたからにはとりあえず一ヶ月、毎日更新をしてみる」というルールに(なんとなく)なった背景(というか本質的なところ)は、「苦手な言語化とアウトプットに少しでも慣れること」だから、言ってしまえばその目的を果たすことができるのなら「ルールが絶対」ではなくなるわけで。
要は、ルールに縛られるあまりいつのまにか“ルールを守ること”が目的になってしまってはいけないということ。

ルールは必要に応じて変化していけば良いし、そういう柔軟性こそとても大切。
ルールに従わなくて糾弾される組織と、必要に応じてルールの変更の提案をしやすい組織だったら、後者の方が魅力的じゃない?


という、盛大な言い訳。

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