東のデリダ・エクリチュール論解釈
東浩紀の『存在論的 郵便的』に基づくデリダのエクリチュール論を振り返れるようにまとめておく。
(文学を考えるにあたって翻訳問題には何度もぶつかるため)
なお特に目新しい再解釈の発展はないので、20〜30年前(当時)の最盛期に履修された方には申し訳ないが、若者の回顧学習に過ぎないことを謝罪しておきます。
1、歴史の遡行の所作(現在から歴史を遡行し、起源を発見する所作)はなんであれ散種の多義性化を通過する。
それは前回のノート転回と夢想で示した不確定的な時間を過去ー現在ー未来と一直線で表した時系列において認識される際の一種の幻想である。
2、
それに対して、デリダはエクリチュールの運動に着目し、現在に回収されない別の偶発的時間が抹消できないと言う。→その自己同一性を脅かす声こそが「幽霊」の声である。
デリダにおいては、私は柄谷のいうような固有名詞ではなく、その単独性を剥奪され匿名的で非人称的に扱われる。
しかし脱構築を単なるテクストの戯れだと解釈すれば、それはすべてを懐疑の罠に落とし込み真のイデオロギーを温存する技巧に留まってしまう。イェール大学のデリダ派達はまさにその誤謬に陥っており、芳しくない❣️
郵便的に定義するとエクリチュールとは情報の不可避的かつ不完全な媒体のことである。
エクリチュールは常に事故の可能性にさらされており、デリダのよく批判する「現前の思考」とはそのような事故を制御可能だと考える思考法のことである。
コミュニケーションとは、郵便的な事故の可能性からは完全に逃れられない欠陥付きの郵便制度である。
その事故をどう考えるか?デリダは誤配を強調する
否定神学→体系を自壊させる脱構築は、その裏に否定できないもの「不可能なもの」を神秘化しようとする志向があり、これが脱構築の罠である。
ゲーデル的脱構築の残余物を神学化したい!という罠にデリダ的脱構築は抵抗せねばならない