感情のOrientation
何らかの目標に対して果敢にも挑戦し、自分の望んでいた帰結を得られなかったとき、挫折という文字が頭をよぎるか、またはもやもやとした感情が心のどこかからのそりと立ち上がって、いつしか心に覆いかぶさるか。どちらが先かは人によるだろうし、今から言いたいことに対して大きな影響はない。
正・負の感情
心に湧き出たその感情は、生まれた瞬間から正・負の性質を帯びているのか。
感情の湧き出る入り口の形が、今までの経験によってある形に切り取られていたとするなら、感情は正か負の特性とともに生まれてきているのかもしれない。それに関しては今から書くこととはまた違う段階の話になるから、別の機会に考えることとして。
心の中に現れたその感情がニュートラルだとすると、人は無意識のうちにその感情にラベルをつけている。きっとそこで気づかぬうちに色分けしている。最初に挙げた例で言えば、心が折れるといった負の意味の“挫折”という単語が、無意識下でその感情に貼り付けられ、そこから先はベルトコンベアに乗ったかのように、様々な感情がひょこひょこと現れては手を組んで大きくなっていく。挫折した、失敗した、落ち込むなあ、しんどい。負の感情は勝手に徒党を組んで膨らんでいく。
人が生き物である以上、生理的に負の連鎖反応が引き起こされるのは極めて自然な気がする。ポジティブな感情などより、ネガティブな感情を増幅してその原因と距離を取ることは、生き物が生存するために培ってきたものだと思うから。生命を脅かされることに対して正のラベルを貼る生き物は、きっと生き残らない。
さて、もし心に現れた感情に対して、正のオーラを纏った挫折という色を塗ることができたら。いやあ失敗したなあ、でも意外とためになることもあったなあ、次に活かそう。
正の方向にオリエンテーションすることが比較的簡単な感情がある気がするし、その難しさの程度は、今までどれだけ強く、ある感情に対して正か負のラベル付を行ってきたかによると思う。トラウマと呼ばれるような、自然に強力な負の方向づけをせざるを得ない体験を経ると、同じような感情が芽生えた時に、それに対して意識的に正の色を塗ることは、あまりにも難しいしエネルギーを要する。
悲観は気分に属するが、楽観は意志である。
この言葉が好きで、トラウマといっても差し支えないような強力な負の感情を乗り越えられたことがある。受けたことはないけど、認知化学療法やカウンセリングといったことはそのための手段の一つなんだと思う。
ただ、どれだけきれいに剥がし取ったと思っても、そこには消えないシミが残る。乗り越えたと思っていても、似たような状況に再び巡り合ったとき、葬り去ったはずのシミは残っていて、それを足場にして、負の感情は勝手に積み上がっていく。どんなに強く消そうとしても、むしろ強く消そうとするその執着がシミを残す原因なのかなあ。
精神を蝕まれた人が取る行為の一つに、自傷行為がある。
その行為を取る理由はいろんな切り口で分析されていると思うけど、その理由の一つに、自傷から得られる、快感にも近い感覚があるのだと思う。ネガティブな感情を必要以上に推し進めて心を傷つけることも、実際に自身の体を傷つけることも、一瞬の間得られるその感情のためなんじゃないかと思う。リストカットとか、明らかに自傷とされている行為だけじゃなくて、人はいろんなタイミングで想像以上に自傷している気がする。そしてそれはすでに書いたけど、生理的な反応であると思う。
負の方向への志向は容易で、不思議なことにそこに大きな労力は必要ない。心を預けてしまえば、時間とともに徐々に徐々に、深く深く落ちていく。
それ以上落ちないように手を広げてなにかに引っかかるようにするには、一歩目を踏み出す必要があるけど、その一歩は信じられないほど重い。そして広げた手が何かを掴んで踏みとどまらせてくれるかは一切保証されていない。さらにそこから正の方向に戻ってゆくには、楽観という意志を持たなければいけない。負の感情は油断をすればいつでも顔をひょこっとだすから、意識をして、その意思を持っていないといけない。
自然と行われる最初のラベルが正のものになるまでには、相当な時間と訓練が必要な気がする。そんなことはできない気もする。なんて面倒くさいんだろう。