東京都慰霊堂と東京都復興記念館がある横網町公園は陸軍被服廠の跡地に作られたものである。
被服廠というのは軍服などの製造・保管等を行う施設。
1919年に本所区から王子区に移転した。
移転した後の本所区の跡地は、公園等が整備される予定だったが、まだ整備がされないうちに1923年、関東大震災が起こり、この場所に大勢の人たちが避難してきた。
大きな空き地があればそこに避難するのは当然のことで、現在でもそれだけ大きな空き地があれば避難場所に指定されるだろう。
これは運がなかったとしか言いようがない。
雑司ヶ谷あたりからこの情景を観ていた内田百閒はこう書いている。
内田百閒は、当時ドイツ語を教えていた長野初という女性をこの震災で亡くしている。
長野初については「長春香」という文章に記されている。
というのだからかなり優秀な人だったのだろう。
震災に遭った時には妊娠中だった。
竹久夢二は震災の翌日に被服廠跡を見に行っている。
田中貢太郎が被服廠跡に行ったのは9月6日のことだったが、震災の五日後でもこんな状況だったという。
関東大震災の身元不明の遺骨のほとんどが、この東京都慰霊堂に納められている。