見出し画像

オーバードーズとの向き合い方

私とOD

私の周囲には精神的に病んでいる人が多く、日常的に市販薬を100錠、300錠と過剰摂取している人たちを目にしてきたため、ODは学生時代から私の日常に溶け込んでいた。

とはいえ私がするODは、10〜20錠と、軽いものである。これは「プチOD」と読ばれ、自分でも「プチOD」と読んでいた。

私が「プチOD」しかしないのは、ODで救急搬送されると、とても苦しい「胃洗浄」が待っているからだ。通常は麻酔などで眠らせて行うものだが、「二度とODをやらないように」と医者がわざと苦しい方法で胃洗浄を行う。点滴だけの場合もあるのだが…。
更に、運が悪ければICU行きになったり、後遺症が残ることもある。
だから私は救急搬送されない程度に、タバコや酒のような感覚で嗜んでいる。

幼少期の影響:薬は「禁じられた特権」

ODの一因は周囲の影響に限らず、幼少期の経験が影響している。
私の家庭では、病気になっても薬は基本的に「禁止」されていた。そのため、薬に対する意識は「手に入らないもの」や「禁じられたもの」として形づくられていった。友達が風邪を引いたから風邪薬をのむ、それだけでも格好良いとさえ思い、憧れていた。

学校でインフルエンザが流行していたとき、病院に連れていかれず、解熱剤も飲まされず苦しんだ。クラスで私だけインフルエンザの証明書を出せなくて、サボり扱いになり内申に傷がついた。

そんな背景があるからこそ、大人になってから薬に執着するようになった。

周囲の常識から離れ、一般常識を考えさせられる

当たり前に市販薬を1瓶あけて、ストゼロを飲んで、ラリっていく過程をツイキャスで実況するフォロワー。
それにくらべたら、私のODはとても上品なものだと思っていた。

しかし、訪問看護師からは、その考えを改めるよう言われた。
薬は、決まった用法・用量で飲まないとそれはODになるのが、一般常識である。「プチOD」であっても、それが自己破壊的な行動であることには変わりないのだと。

年単位で辞めていく方向になったが、長年の習慣や、周りが何百錠も飲んでいる世界で育った価値観を変えることは簡単では無い。

脱・ODは、切ない

そんな訳で今、私は「プチOD」の頻度を減らす治療を行っている。実際に減らせたと訪問看護師に報告すると「偉い」と褒めてくれるが、嬉しさは微塵も感じない。
薬への執着を手放すことに未練があるし、薬を数百錠飲んで救急搬送される人たちは魅力的で格好良く、憧れなのである。アンダーグラウンドの住人になりたい。
しかし「プチOD」止まりの私は、結局、看護師の言いなりになってアンダーグラウンドには染まりきれず、いつか長年付き合ってきた市販薬と別れを告げるのだ。それはそれで、いい事なのだが、考えると切なくなる。

いいなと思ったら応援しよう!

うつろ♦メンタルエッセイスト
よろしければサポートお願い致します。