今この瞬間の生身の私
2022年の小野村口癖大賞は、「痛いのは我慢すればいい!」です!
いっぇええええーーーい!
👏👏👏👏👏👏👏👏👏
…じゃないわい!
頭痛
歯痛
怪我
痛み以外でも、熱やしんどさ、あらゆる不調に対してそう思ってきました。
自分が我慢すればどうにかなることならば、いくらでも我慢する。
でも我慢だけじゃどうにもならないものもあります。
例えば、それ以上動くと生涯の傷になるとか、腫れのせいで声が出ないとか、表に出られる顔じゃないとか、このご時世的な問題とか。
昨年は、そういう自分の気合い次第でなんともならないことに対して、苛立ちや焦りを感じることが多い年でした。
でもここで書きたいのはそのことではなくて…
我慢すればいい、気合いで乗り切る、ということ自体がどうなんだ?
何かあっても即座に「我慢します!」と答えられる、自分の耐久性への信頼は評価したいけども、実際に耐えれているのか?
不調と向き合って、原因を知ったり、根本を見直したり、そうしてしっかり治療をするのではなく、【その場を凌ぐ】ということばかりをしてきました。
思えば、子供の頃からずっと。
子供の頃の我が家は、毎週末どこかに出かける非常にアクティブな家族で、子供の私にとってはそれはそれは楽しくて刺激的で有意義なweekendでした。
当時、私や弟のさまざまな体験のために時間とお金と労力を惜しみなくかけてくれた両親には、本当に感謝しています。
ただ、その頃から体調を崩すことが多かった私は、高熱のままスキーに行ったり、アイススケートで骨折するほどの転倒をしても「痛い」と口に出来なかったりもしました。
私の不調のせいで他の人を振り回さないように。みんなが楽しめるように。
そうやって空気を読みながら、とにかく自分さえそのしんどさを我慢すればいいんだ、と無意識に覚えていったのだと思います。
今、大人になった私からしたら、「よく我慢したね、しんどかったね、休んでいいんだよ!」と全力で声をかけてあげたい!抱きしめてあげたい!と思うのだけど…
じゃあ、その大人の私自身の、当の本人の不調に対してはどうよ?
おんなじことをしているのでは…?
本番やオーディションなどでベストを尽くすことを最優先して、いろんな不調を度々無視してきました。
昨年一年だけでも、「痛いとかしんどいのは我慢するので、物理的な症状をどうにかしてください!」と何度病院に駆け込んだことか。
ちょっと多すぎるよね?というくらい、不調の壁にぶち当たりまくりました。
それも、いつも大事な何かを控えているタイミングで。
結果として、やっぱり私はどれも気合いでどうにかしたし、その時々でベストを尽くしたので、どの結果にも後悔はありません。
でも、そうして度々現れる不調が何かを伝えようとしてくれているような気がずっとしていました。
それがまさに、「しんどい時は休もうよ、休んでいいよ。」ということなのかもしれません。
何かを犠牲にしてでも掴みたいものがある時、真っ先に犠牲にするのはやっぱり自分自身です。
でも、自分自身の心と体が健康でこそ、その掴んだものの豊かさを実感できるんだと知りました。
ゆっくりじっくり整理しながらここまで書いてきて、ふと浮かんだこと。
それは、「やりがいや生きがいと、今この瞬間の生身の私と、どっちが大事なの?」という私自身の訴え。
子供の頃は、両親に必死に訴えていたのかもしれない。
私の心を、体を、大事にしてほしい!って。
そして今は自分自身に。
私の思い描く理想の活動と、実際に心と体が耐えうる活動との間に、何かしらの誤差があるとき、その無理が不調という形になって教えてくれているのかも。
理想に近づけるように自分を磨くことはもちろん素敵だけど、その過程における【今この瞬間の生身の私】こそ、心身ともに健康で幸せでいたいものです。
自分の性質をきちんと受け止めて、受け入れた上で、元気に何事にも挑めるような自分でありたい。
何かのために自分を犠牲にすることはもうしないと、自分に約束する。
…のはやっぱり勇気がいる。
それでも約束しよう。
そしてその約束を破らないように、自分の信頼を取り戻せるように、いつも今この瞬間の生身の私を大切にする。
きっと最初は難しいだろうけど、丁寧に考えながら、感じながら、生き方を変えていきます☺︎