映画『私は今も、密かに煙草を吸っている』
「イスラーム映画祭9」に出かけた。毎年この時期に行われている稀有な素晴らしい企画。
一昨年、昨年と3本ずつ鑑賞。今年は円安の影響もあって縮小開催と聞く。
『ファルハ』を特に観たかったが即完売していた。ひとまず初日に『私は今も、密かに煙草を吸っている』を観る。
自分は何の予備知識もないため、上映前の解説がありがたかった。主催者によるこの短いながらも充実した前説が名物とも言える。
ライハーナ『私は今も、密かに煙草を吸っている』(2016、フランス・ギリシャ・アルジェリア、90分)
原題:À mon âge je me cache encore pour fumer
英題:I Still Hide to Smoke
(※この作品には性暴力を描いた場面があります。)
『私は今も、密かに煙草を吸っている』は元々戯曲で、作者自らが映画化。
言われてみれば、台詞回しや俳優たちの立ち位置などに名残りが見える気がする。
1995年、アルジェリアの首都アルジェ。
国内は激しい内戦の最中にあった。
ハマム(公衆浴場)で働くファーティマは、11時の営業開始に向けて準備する。
出勤前ですでに、抗えない家庭内暴力を受け、道の途中で万引きやテロを目の当たりにする。
打ちひしがれるファーティマは辛うじて正気を保つために、おそらく公には禁止されているであろう煙草に火をつける。
作品の大部分は、このハマム内での会話劇だ。
極端に抑圧され続けている女性たちが、束の間ホッとできて自分を曝け出せる、聖域のような時空間(幼い男の子は母親と一緒に入れる)。
止まらないお喋りの中、場を取り仕切るのもファーティマの役割だ。
そんな中、婚姻前に妊娠したことで兄から殺されそうになるマリアムが命からがら逃げ込んでくる。
すぐにも生まれそうな状態のマリアムを何とかして隠し、助けようとするファーティマだったが…
1995年当時のアルジェリアにおける社会背景や文化、考え方などあまりにも知らなさすぎる自分にとって、カルチャーショックに近い感覚すら覚えた。
特に、不条理なまでに先鋭化している男性優位性。これが暴力と直結し、度し難い悪循環を招いている。
こうした状況下なので、全編に渡って緊迫感が張り詰めている。
そしてもう一点よく分からなかったのは、宗教を巡って激しく敵対する二人。
同じイスラム教でも私とあなたのは違う!と言っていたので、宗派か何かの対立あるいは解釈の齟齬なのだろうか。
結局はここでも、被害を受けるのは女性だと示されている。
まるで人間扱いされていないような現状に怯えながらも、女性たちは怒り、悲しみ、そして強く主張する。
「私たちだって生きているんだぞ!人間なんだぞ!」という叫びが聞こえそうなドラマだった。
ないものにしようとしても消せるわけがない身体性を、覆い隠すことなく前面に出しているところもいい。生きている以上、臭いもすれば汚れもする、毛も伸びる。血も流せば性欲もある。結果として、身籠ることも当然ある。
映画の最初と最後、家々の屋上からカメラはゆっくりと地中海を映し出す。
喪を表すような無数の黒い布(ヒジャーブだろう)が風に舞い、空高く飛翔していく様子は、それだけ数多くの女性たちが犠牲になってきたことの暗喩なのか。
ここではない場所へ出て行きたい人が、窓から外を眺める行為で暗示されるように、語り部でもあった29歳と半年のサーミアは、もうアルジェから、アルジェリアから別のどこかへ行ってしまいたいと心の底では願っていたのかもしれない。
「イスラーム映画祭」、ぐずぐずしているうちに『戦禍の下で』も売り切れてしまったので、せめてもう一本、『ハンズ・アップ』は観に行きたいと思っている。