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「しつけ」か「放任」か? ー子どもには子どものやり方がある。

ひさしびりの更新。軽井沢はすっかり冬で、浅間山には雪が。朝夜の寒さも体に堪える季節になってきました。

そんななか、スノーコートも着ずに登園している5歳の娘。「子どもは風の子」。けれど芯から冷えてしまうのでは…心配な季節でもあります。

先日、子どもの通うグループに「編成」がありました。そこで起きた子どもとのやりとりを通して、「しつけってなんだろう?」「正しさってなんだろう?」と思うことがあったので書いてみます。

またもや登園で泣き出す

娘の通う学校では、固定的なクラスがありません。子どもの関心や育ちによって、同年齢とすごしたり、異年齢とすごしたり。あそびをつくる人数も変わってきます。

今年の10月まで一緒にすごしていた同学年(年中)のグループは、同年代だけあって、仲良くすごせていて、娘も居心地の良さを感じていたようでした。しかし、そこでグループの編成がありました。それまで意気揚々と通っていた朝の登園も、行き渋るようになってしまったのです。

駐車場で車を降りて、校舎までは300m。
これまでは駐車場で「バイバイ」していたのが「一緒に行く…」といい、ついには校舎前で泣き出してしまう…
「せっかく慣れてきたのに、また逆戻りかー」
そんな親のきもちを抱えていました。

ここで親としての僕がとった態度は「突き放す」でした。
そこには伏線がありました。
虫歯の治療ではじめて通った歯科医さんにいわれた言葉が心に残っていたのです。
「虫歯は親の責任です。治療室までついてきちゃうから甘えてるんです。もっと一人でさせないと!」

そんなニュアンスでした。たしかに思う節はありました。一人っ子なこともあり、「甘えさせる」というかかわり方が多かったかもしれない。マナーもしつけも、できていない。レストランで椅子に立ち上がるなんてことも平気でやってしまう。もう5歳なのに…。

痛いところを突かれたこともありました。ちゃんと一人でやっていけるようになろう。そして、泣く子を残して去ったのですが、そのかかわりがよかったのかどうか…。後ろ髪がひかれる思いでした。

友だちの存在

翌日のこと。
今日は機嫌よく行ってくれるかな。
そんな気持ちで駐車場で車を降りると、友だちの姿が…。いつもは校舎であそんでいるはずの友だち2人。駐車場まできているのははじめてのことだったのでびっくりしていると、「あ〜手袋同じだね」なんて声をかけて、スッと手を引いて、校舎へとつれそってくれたのです。もちろん娘は、しずかに、けれどうれしそうに。登園しました。後ろも振り向かずに(ちょっと寂しい)。

恥ずかしいことに、こんなアプローチは想像もしていなかった。
きっと子ども自身のなかに何かしらのきもちが芽生えたり、変化がおきたりして、泣かずに登園できる日がくるんだろう。そうイメージしていました。ひたすら、「個」の変化を期待していたのです。

でも、登園しづらくて、泣いている友だちがいたら、そこに手を差し伸べてくれる子がいる。そのほうが「あたりまえ」なのかもしれない。
そう思ったのです。
そして、娘自身が成長したり、親が手を焼いたりするのではなくて、人と人の関係性のなかで「振り子」のように、助ける・助けられるが、しぜんと起きるのはとても素敵なことだと気づかされました。
もしかしたら、彼女の泣き虫ぶりが、誰かのやさしさを引き出したかもしれない。すこし解釈しすぎかもしれないけれど、現状の「解決」にばかり目がいっていた自分が、恥ずかしくなったのでした。

「ごめんね」が言える子になってほしい?

歯医者さんに言われた、「ちゃんと厳しくしつけて」という言葉。
その言葉が、僕のなかでどう変容していったのか。
じつはすこし続きがあります。

別の日、娘が不可抗力で友だちを転ばせてしまう場面に立ちあいました。娘は無言。その子はびっくりして泣いています。

その日の夜、一緒にお風呂に入りながら、娘に言いました。
「あのときお友だち、泣いてたよね。わざとやったわけじゃないと思うけど、原因があるから、ああいう時は『ごめんね』ってひとこと言ったほうがいいよ」
と、しっかり伝えました。
親として伝えたいこと。
それは「人の痛みがわかる人になってほしい」。
そんな願いがあったからです。
娘はわかったのかわからないのか、頷いていました。

また別の日。今度は、妻から聞いた話です。学園のスタッフ(先生)がこんなことを言っていたそうです。

「子どもたちって、他の子が転んだり、痛がったりするときには、よく見ていて、本当に痛いか、声をかけたほうがいいかどうか、ちゃんとわかってるんですよね」

そのことを聞いたときに、自分が声をかけた「ごめんねって言ったほうがいい」という言葉の浅さに思い至りました。

人の気持ちに寄り添える。
人の痛みがわかる。

どこからも否定しようのない、子どもにめざしてほしい人間像のひとつです。でも、それを「相手が泣いたらごめんねという」というアクションに落としてしまうことで、むしろ相手の状態を見ずに、「ごめんね」だけいうことになってしまうかもしれない。ほんとうに大切な「相手を見る」ということができなくなってしまう。

いや、そんなことよりも「相手が泣いたらまずごめんと言おう」という雑な伝え方で、相手の気持ちを考えることを教えようとしていた大人のがわの浅はかさに思い至ったのです。

むしろ、子どもたちのほうがしっかり見ている。
登園で迎えにきてくれた友だちのように「ちゃんと相手を見ていて、困ったときにだけそっと手を伸ばせる」
そこには、表面的なマナー・やりとり、では言い表せない、相手への素直な関心とリスペクトがあるような気がしたのです。

マナーを教える。
人生で大切なことを教える。

それはきっと親の(大人の)役割ではあると思います。
でも、教え方や伝え方に正解はない。それどころか、大人が「これは真実のような気がするけれど、本当にそうか」というきもちをどこかでもっていないと、単なるお仕着せになってしまう。

そんなことを考えていくと、子どもとのかかわり方って、「願う」とか「念じる」「祈る」のようなことになっていく。それは、決してぼんやりと接しているのではなく、子どもたちを信じて、子どもたちのやりかたで見つけていこうというあり方なのではないか。そんなことを最近は思います。

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