「土」には宝が眠っている、かもしれないという話 【軽井沢 移住日記】
先日、畑で野菜を収穫をした。
トマトはまだ青くて獲れなかったけど、ズッキーニとエンドウマメ、南瓜、キュウリ、大根を少しだけ。
苗を植えるタイミングがむずかしかった。5月の中旬、まだ霜が降りるかもしれない、という寒い時期に植えたので、萎れてしまったものもあった。「もう少し待ったほうがいい」と経験者の方が言ってくださっていたのだけど、前のめりの気持ちが押さえきれず…。
その中で、いちばんの収穫は、ジャガイモだった。
「あった!あったよ〜!」
と家族3人で、土を掘り起こして、ジャガイモを探す作業は、宝探しみたいで楽しかった。
それでふと思ったことは、昔の人は、土を掘り返して「食糧」が出てくるなんて、すごく興奮しただろうし、心からの宝探しだっただろうな、という想像だった。
僕らは、食べ物が欲しくなったら、スーパーやコンビニに行くことに慣れている。むしろ、それしか思い付かないほど。だけど、土を掘れば、食べ物があるという選択肢は、生活を実に豊かにしてくれるのではないか。大袈裟かもしれないけど、そんなことを思った。
僕らは暮らしの中で、「お金」をとても大切に扱う。道に落ちていたら拾うだろうし、銀行の預金や投資金額は定期的にチェックするほどにはアテンションを向けている。参拝の願い事や年初の目標で、「お金に困らないこと」や「年収アップ」を祈願するし、それを人生の(割と優先順位の高めな)目標にしたりする。そして、そのことを疑うべくもない。
でも、ここで昔の人(ざっくりすぎますか?)の気持ちを想像してみる。
食べ物を提供してくれる「土」は大事だ。それを作る、太陽や雨や自然環境にも感謝や畏敬の念が湧くだろう。土を豊かにしようと思うと、水(排水)やゴミなどの周囲の環境を丁寧に扱う感覚が生まれるかもしれない。土や自然に、神を見出す、という発想も十分想像できる。もちろん肥沃な土地をめざして、奪い合い、もあるかもしれない。
僕らがいま実感できる、お金に向けられた感覚は、ちょうど「土」に置き換えができないだろうか。ジャガイモを掘りながら、そんなことに気づいた。
最近は、コロナの影響で、東京に行くのが月に一度ほどになっている。東京での生活があたりまえでなくなってくると、いろんなことに気づくようになる。「土」がない、というのもその一つだ。
東京に住んでいるときは疑問にも思わなかったが、都会はコンクリートに覆われている。本当に草が生える隙間がないくらいに(それでも雑草は生えますが)。よく都会に緑が少ない、という言い方がされるのだけど、そうではなくて、「土」がない。土がない、という視点で見ると、土の上がパッケージされている(包まれている)ように居住空間が見える。地に足がついていない、というか、つけられない。のぞむと望まざるとにかかわらず、土への接触が遮断されている。
土があると、雑草抜きが必要だし、風がふくとまき散らされるし、車も汚れる。舗装道路は資産価値。「めんどくさい」を排除していくと、結果、土はなくなる。
でも、土がないと、雨は染み込まないし、熱は照り返されるし、畑も気軽にできない。なにより、土への想像力がはたらかなくなる。
すこし話題は飛ぶが、以前、娘にプラスチック問題の話をしたとき、真っ先に「鳥さんが食べると大変だから、海に拾いに行こう!」と声を上げていた。それからは、庭にプラゴミがあると拾うようにしている。小さなアテンションを向けるためには、身近にあって、触れる必要があるのだと思った。それは、鳥も同じ。土も同じ。空想上の存在に、実感値を伴って、時間と労力をつぎ込むのは難易度が高い。
昔はよく、周囲のあらゆるものに霊が宿っている、と考えたと言われている。アニミズム信仰は、意識の中で薄れてしまったようにも思うけど、でもどうも心の深くで眠っているだけのようにも思える。つまり、環境さえ変えれば、それは意識せずとも立ち上がってくる。
人は、「めんどくさい」をできる限り、生活から排除してきた。そしてめんどくさいがないことに価値を置いた。家の造りもそう。でも、それは社会の価値観であって、それを受け入れるかどうかは、個人にある部分委ねられている。便利を捨てろ!とは思わない。自分だってそんなこと言えるような暮らしをしているわけではない。ただ、「めんどくさい」が捨ててきたものの中に、実は豊さのヒントになる「お宝」が眠っているかもしれない、という感覚はもっていて損はないような気がするのだ。
ジャガイモは、ストーブの鍋でフライにしました!(娘に好評だった!)
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