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【小説】貴志祐介『黒い家』を読み保険営業を辞めたくなった

生命保険とは統計的思考を父に、相互扶助の思想を母として生まれた、人生のリスクを滅殺するためのシステムである。
断じて、人間の首にかけられた懸賞金などではないのだ。

小説を読んで仕事やめようって思ったこと、ある?


大学在学中に読んで以来、オリンピック2回分ぶりに貴志祐介さんの小説『黒い家』を読みました。

ストーリーをざっくり言うと、保険金詐欺が絡む人間の怖さを描いたサイコホラー小説
幽霊や怪奇現象はなく、ただただ、度をこえて情緒の欠落した人間の言動に恐怖させられる小説です。関わったことがないだけで、どこかにかならず存在していると思われる、想像できる怖さ。
刀で斬られる映像よりも、逆むけをひきちぎる描写の方が「痛そう」に感じる。そういう「イヤな親近感」を感じられるホラーなんです。

再読して面白いと思ったのですが、学生時代に読んだときよりも恐怖感が倍増したんですよ。

その理由は「自分が保険に携わる仕事をしているから」です。

この作品は保険会社の社員が主人公であり、当然、保険に関する情報も盛りこまれています。
私は保険代理店勤務、主人公の若槻は保険会社の支社の人間。
どちらかと言えば、お客さまと直接お話する回数は保険代理店のほうが圧倒的に多い。
もしかしたら自分もいつか、普通の顔をして倫理観の壊れたお客様につきまとわれるかもしれない。と思わせるほどリアルで現実味をおびた内容なのです。

なにより当時の自分とは違い、出てくる保険用語に馴染みがある。
だから目の前で起きている恐ろしい事態と、自分の実生活がリンクして、日常に浸食してくる感覚がじわじわと背筋に悪寒を走らせるんです。

本作では、ある理由で菰田(コモダ)という男から呼び出された若槻が、菰田の息子である和也くんの首吊り死体の第一発見者に仕立て上げられるところから物語が動きはじめます。

異様な臭気を放つ家に呼び出され、首吊り死体を見せつけられる
菰田は死体の様子よりも、「死体を発見した自分(若槻)の反応」をみているようだった。普通なら子供の死をなげき、必死に救出するのが親として当然の反応であるはず。

このことから若槻は、「これは自殺ではなく、そう見せかけただけの保険金狙いの殺人である」と確信。

警察はろくに動いてくれないため、若槻自ら事の真相を追及していきます。
保険をあつかう人間として、この件で保険金を支払うことは犯罪を助長することにもなり、同じような被害者をふやさないためにも、この事件は無視できないのです。


少し自分語りになりますが、自分も「異様に臭い家」のお客様にあたったことがあるんです。

前任者が退職したため、引継ぎの担当として初めてお伺いしたご自宅でした。

老夫婦ですが、身なりは決してきれいではありません。奥さんは長くのびた髪が湿っぽかったのを覚えています。
玄関をあけるなり、ペットがそこかしこでトイレをしているような臭いが私の嗅覚を襲いました。
出されたスリッパもボロボロで、足を通すとこれまた湿っぽく不快感を感じたのです。

リビングも汚く、キッチンの床にはボロボロで汚い新聞紙がひいてあり、とどめに自分の顔近くを2匹の小バエが飛んだ瞬間、お客さまに話すべき内容がすべて飛びました。本能的に「この家に長居すべきではない」「早く帰らなければ」と恐怖したのを覚えています。

本作の『黒い家』は、菰田家の異様な住まいを指します。
異様なまでの臭気がただよっているというくだりで、先ほどの自分の体験を思い出しました。

たま~に生きていると「めちゃくちゃ臭い人」に出会うじゃないですか。
施設内ですれ違ったりして顔をしかめそうになるような人。
私は、そういう人に対して言葉にしにくい「恐怖」を感じます。ここまでの臭いになるまでの衛生観念の至らなさ、それを放っておける神経に、社会性の低さを勝手に感じとっているのかもしれません。

そういった本能に訴えかけてくる恐怖を思いださせるのが、『黒い家』なのです。

・なぜ菰田が若槻を呼び出して首吊り死体を見せつけるような真似をしたのか?
・なぜこの家にはここまでの臭気が漂っているのか

などの謎がとけていくたびに異様な気持ち悪さを感じながらも、先が気になってページをめくる手がとまりません(再読にもかかわらず)。

主人公はこういった事件に多く巻き込まれる刑事や探偵ではなく、あくまで保険会社の一社員。
彼の推測が、一種のミスリードになっている仕掛けも面白かったです。真犯人はさすがに覚えていたので「ちがう!そいつじゃない!」と思いながら読みました。

作者自ら心理学や精神医学を勉強したのであろうその知識に裏付けされた、「現実に存在しそう」な殺人鬼のキャラクター設定が、怖さを感じさせる理由のひとつですね。説得力があり、「もしかしたら身近にいるかも」と思わせる身近さに妙なリアリティがあって、フィクションをフィクションとして片づけられない気持ち悪さがある。

小説のほとんどを忘れていましたが、終盤にその「黒い家」に主人公が乗りこむ場面の怖さだけは「映像」として覚えていました。
同作家による「天使の囀り」の終盤の凄惨なシーンとかぶるところがあります。良い小説は、頭に映像を残してくれるよなぁとふと思います。

自分が主人公だったら、目の前で首つり死体を見せられたその日に辞職でしょう。
私から見れば、あれだけのことがありながらなお保険会社に勤めつづける主人公の精神のほうがよっぽどホラーだ。

ひとつ、どうしてもツッコミどころというか、物語の冒頭で菰田和也君の首吊り死体の件で警察が「黒い家」の現場検証をしているはずなんですよ。その際に過去の犯罪の証拠がたくさん出てきているはずではないか?と警察が無能すぎる描写が気になりました。
ここで警察が菰田家の常軌を逸した過去の証拠たちをすべて現場検証で抑えていたら、この小説は100ページにも満たずに幕をとじることになるでしょうけど。そこはさすがにもっとちゃんと現場検証しとけよと思わずにはいられませんでした。

とにかく貴志さんの文体は自分にとても合っていると改めて思いました。というか誰にとっても読みやすい。
別の小説と交互に読むつもりが、再読にもかかわらず片っぽ放り出して最後まで読みふけってしまった。

ただ怖いです。特に保険会社に勤めている人は読まないほうがいいかも。

とりあえずは「黒い家」を読んだことを理由に保険代理店をやめようかと思うんだけど、さすがに笑われるかな。

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