右向け右でも目線は空へ/「先生」の違和感〈コップ一杯の夢と適量のノンフィクション〉
学生時代からちょっと変わったタイプだった。主観で「ちょっと」ならば客観では「かなり」変わっていたのかもしれない。具体的な話は省くが、クラスで浮いていたことは確かだ。
それも社会になると個性的だと捉えられるようになった。
とはいえ何をするにしても常識やマナー、基礎基本は固めるべきだ。
その上で自身の価値観を築いているつもり、守破離は普段から意識しているつもりである。
最近は専ら「離」ばかりで、周囲からユニークと捉えられることもあれば、いい加減だとされる時もあるが。
指導者に媚びる必要はないし、身内の馴れ合いも好きではないが、基礎を身につけるために教えを乞う場合はある。
便宜上「指導者」としたが、「先生」や「先輩」といった呼称は嫌いだ。
というのも、「先生」と呼ばれ続けると「私は偉いんだ」という錯覚に陥り、主導するリーダーではなく意固地なボスになってしまうような気がするのだ。
ある特定の分野ではその人が優れているだけで、その逆もまたあり得るのだから、上下ではなく対等の関係が良いと思っている。
個性が強いともちろん対立も増えるが、反対意見は頭の中に入れる程度で言い争いはしない。時間が経てば相手が正しかったと再認識することが、多々あるからだ。
「〇〇さんみたいになりたい」と目標にすることはあれど、クローンのように100%その人になる必要はない。
25%を受け入れ、また25%は自分なりに落とし込み、50%は頭の片隅にとどめておく、これが最近の考えだ。
前後(縦)と左右(横)の平面に、高さを加えると立体になる。それぞれ伸ばして大きな器にすることで、拒まず許容できるようになりたい。