見出し画像

同居にいたるまで、そして決断

「義父と同居して介助している」
というと、ほとんどの人から
「えらいね」「すごいね」と言われる。
それだけだといいのだが
「義父なのにそこまでしなくても」
「無理せず施設や福祉を頼ったら?」
と言われることも多々あり、そのたび心の中で
「うるせーーー!なんも知らんくせに好き勝手言うなーーー!」
と叫んでいる。

なので、まずはどんな経緯で同居することになったのか
書いていこうと思う。

ことの発端は6年前、義父が交通事故に遭った。
夫と入籍して幸せの絶頂の3か月後のことだった。

義母から夫へ電話があり、急いで病院に駆け付けた。
手術は長く、その間義父の同僚の方が何人も顔を出したり、病院の長椅子で交代で仮眠をとったりパンを食べたりして、とにかく終わるのを待った。

私は義父の子供ではないので、医師からの説明などには入れずとにかく病院の廊下で静かに待つしかできなかった。

ようやく私も動けるときがやってきた。
厳重に隔離された部屋で管をたくさんつながれ、頭髪はなく頭の一部が大きくへこんでいる意識が戻らない義父と対面した。
泣き崩れる義母、一生懸命声をかける夫と義弟。
私はかける声もわからずただただ茫然とその様子を見ることしかできなかった。

時は過ぎ、義父は意識を取り戻したが重大な後遺症を負ってしまった。
「高次脳機能障害」である。
高次脳機能障害といっても症状は十人十色だ。
体の司令塔である脳の一部を失った義父は、
失語症、記憶障害、遂行機能障害、半側空間無視、行動と感情の障害など様々な本当にたくさんの機能を失った。

家族の介助やリハビリや作業所での活動を通して、現在は激しい症状はかなり収まったが、治ったわけではない。
失ったものは失ったままで、あくまで脳のほかの機能が補完したり、義父本人や周りの家族が病気の扱いに慣れてきたのである。

慣れてきた、とはいえ大変なものは大変である。
特に扱いが難しく今でも大きな課題となっているのが感情、特に「怒りと欲求の制御」だ。
突然怒り出す、そして怒っていても何に怒っているのかわからない。
さらに怒り方が度を逸している。
たとえるなら、3歳児の終わらない大泣き大癇癪モードだ。
3歳児なら体も小さく力も大人ほど強くないが、相手は50歳の大の大人。
同じ男性かつ義父より若い息子たちでもとても大変だった。
そして、本人も何にこんなに怒っていて、抑えたいのに抑える機能がないから制御できない、といった感じで誰も手が付けられなくなる。

義父の介助は、最初は義母たっての希望で自宅に連れて帰ることになったのだが、とにかく喧嘩がたえず心身ともに疲労したところに義母も癌が見つかり精神的にまいってしまい離婚することとなった。
私たち夫婦も精一杯やれることをやったつもりだったが、離婚を避けることはできなかった。

その後義祖父母が引き継ぎ、実の親ならではの献身的な介助のかいか義父の喧嘩は少し収まったように見えた矢先、義父がアルコール依存症になった。
感情や行動の制御が難しい高次脳機能障害では、何かの依存症になる可能性は高いと本に書いてあった。
きっかけは義母と離婚する前に義母と一緒に夫婦で飲酒したことだった。
「仕事とお酒が生きがいの人だった。仕事はもうできないからせめてお酒だけでも楽しんでほしい。」と義母なりの優しさだった。
この時、アルコールを摂取することを止められていたら、ほかに楽しいことをしてあげられていたら、と大きく後悔することとなる。
義母と離婚してから3年がたつが、アルコール依存症と現在も苦しいぎりぎりの戦いが続いている。
高次脳機能障害に加え、アルコール依存症の義父を介助する実の両親である義祖父母を支えてはいたが、みるみる衰弱していった。
そして、義祖母が希死念慮を抱くようになり「このままではいけない」と一念発起、同居での介助を決断した。

義母が離婚するとき、義祖母が死にたいと思い詰める前に決断すべきだったのかもしれないと後悔もたくさんした。
何が正解の道かわからない。
真っ暗闇を手探りで進んでいる感じだ。

不安なこともあるが、「それ以外方法はない!」といった投げやりな考えで決断したわけではない。
同居家族を支援する中で、失った脳の機能を取り戻すことはないが確実に脳の他の機能が補完していることを体験したり、この間に私は2人の子供を出産しているのだが、1人目の時義父は全く感情がなくとにかく「無」だったのが赤ちゃんと触れ合うようとにかくしつこく関わった結果、2人目の時は「かわいい」と事故後初めての感情をあらわしたり、大変な状況下でも楽しく時間を共に過ごすかすかな希望があると感じたから決断した。

また生まれてきた子どもたちには、世の中には色んな人がいて色んな人がお互い助け合って生きている、障がい者を排除することなく障がい者が自分の生活の中に当たり前にいて人として対等に接する生活を当たり前なものとして思って欲しい願っている。
この考えは賛否両論あることは重々承知している。
実際義母からは「虐待だ!」と罵られたが、甘んじて受け入れた。

それでも決断した。
最初から成功を約束された道なんてないし、そんな道は人生としてなんの面白さもない。
子どもも義父も不幸にせず、夫婦で決断した道を成功させるしかない。
大きくなった子どもたちが、
「大変なこともあったけど、じいじとの生活は楽しかったよね」
といえる未来をつくっていきたい。

施設に入ってもらうという選択もあったが、精神障がい者の施設は数が少なくさらに本人が強く拒否している以上、今の入所はなかなか難しいと判断した。

だったら与えられた環境をどれだけ自分たちが楽しめるか。
大きな困難を乗り越えるからこその大きな喜びや感動を分かち合えるのではないか。

とにかく今は「やるしかない!」と心に決めて、髪の毛を振り乱しながら毎日を送っている。
現在同居を始めてちょうど半年。
「お前は出ていけーー!」「お前はわしの家族にいらん!」
数々の暴言を浴びせられたが、意外とけろっとしている自分がいる。
はじまったばかりだが、半年も続いた今の自分を褒めてあげよう。

まだまだ先は長いこの生活。
どんな顛末になるのか、不安もあるがわくわくもしている。

そんな日々をつづっていきたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?