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「傷つけられた心の傷は一生残る ー ADHDと共に生きる僕の歩み」

初めにこの記事を書こうとした理由は、
僕は以前から、学校や仕事の中でケアレスミスが多く、他の人と比べて苦戦することが多くありました。
自分が不器用なだけなのかなと思いながら過ごしていましたが、ある日病院でADHDの診断を受け一気に楽になり、それまでネガティブだったものが、発達障害の人にキレるなんで最低な職場だなと思うと楽になりました。
そこで今回はこんなことでキレる人いたなって思いながら記載したいと思います。

僕の自己紹介を下記にありますので併せてご覧下さい

人は誰しも、心に残る傷を抱えて生きています。その傷が日々の自分に影響を与え続けるなら、それは特に深く、消えないものとして心に刻まれるでしょう。

「傷つけられた心の傷は一生残る」という言葉が僕に響く理由は、僕自身がその痛みを抱えて生きてきたからです。僕はADHDという発達障害を持っており、この特性が原因で、幼少期から学校生活や社会人生活の中で、周囲の人と同じようにできないことへの苦しみや、理解されないことによる孤独感を味わってきました。周囲からの理解を得られない中で、どれだけ努力しても他の人と同じようにできない現実に直面するたび、僕は「自分はダメな人間だ」と感じるようになりました。そうした経験を通じて、僕の自己肯定感は大きく損なわれ、心の奥深くに残る傷が幾重にも刻まれました。

この記事では、僕が学校や職場で経験した具体的な出来事について振り返りながら、その経験がどのように僕の心に影響を与え、自己否定の感情が深まっていったかについてお話ししたいと思います。そして、その傷と共に生きる方法を見つけ出すために、今もなお取り組んでいる自己肯定感の回復への道についても触れたいと思います。

学校での経験:宿題を忘れた「ただ1人」への叱責


ADHDによる「忘れること」の怖さ


僕が小学生の頃、宿題を忘れることが多い生徒でした。ADHDの特性として、どうしても注意があちこちに散りやすく、何かを意識し続けることが苦手です。そのため、宿題や持ち物を忘れることがしばしばありました。先生は「宿題を忘れないように気を付けなさい」と何度も言ってくれましたが、頭で分かっていても、その「気を付ける」という行為自体が困難でした。いつも焦りと不安を抱えながら、「また忘れたらどうしよう」と怯えていましたが、どれだけ自分で工夫しても、改善するのは簡単ではありませんでした。

ただ1人だけ責められる恐怖と孤独感


ある日、教室で先生が「宿題を忘れた人、手を挙げなさい」と指示しました。怯えながらも手を挙げると、僕以外にも何人かが同じように手を挙げました。しかし、その日は僕だけが強く叱られました。「どうして毎回宿題を忘れるの?」と、先生の声が教室中に響き渡り、僕はクラスメートの視線が痛いほど自分に集中するのを感じました。自分以外にも忘れた人はいたはずなのに、なぜ僕だけがこれほど強く責められるのか。その瞬間、僕は「自分は他の人と何か違って、特別にダメな人間なのではないか」と感じるようになりました。

自己否定感の始まり


その日以来、僕は自分が「特別にダメな人間」だという思いを抱くようになりました。自分が何かを忘れるたびに、「また怒られるのではないか」「他の人と違って僕は何もできないのではないか」と自問自答し、いつも心が締め付けられるような思いで学校生活を送っていました。周りの友達は楽しそうに日々を過ごしているように見えたのに、僕は自分のミスや忘れ物が原因で教室に居づらさを感じ始め、「誰かと同じようにできない僕はダメなんだ」という感情が根付いていきました。

職場での経験:ただ一人、長時間責められる日々


社会人としてのプレッシャーとADHDの特性


社会人になり、仕事に就くと、責任が増し、職場でのミスが自分だけでなく他人に影響を与えることも増えてきました。僕も周りに迷惑をかけないように、タスク管理や計画立てに努力を重ねましたが、それでもADHDの特性が影響し、どうしてもミスが発生してしまうことがありました。どれだけ工夫しても完全には防げないミス。それが原因で、「自分の努力不足が招いた結果だ」という声が周囲から聞こえてくると、ますますプレッシャーを感じ、やがて心の負担が増していきました。

長時間の叱責によるトラウマ


ある日、職場でのミスを上司に長時間叱責された経験は、今でも僕の心に深く残っています。その日は、忙しい業務の中で、他のメンバーも同様に疲れ切っていました。ふとした瞬間にミスが起こってしまい、僕はすぐに修正しようとしましたが、上司は「またお前か」「どうして何度も同じミスをするんだ」と長時間にわたって責め続けました。同僚も周りにいたのに、僕だけが強く責められ、「なぜ自分ばかりがこんなに叱られるのか」という疑問と無力感が胸を締め付けました。

その長時間の叱責は、僕に「自分が職場にいるべきではないのではないか」という感情を抱かせました。僕はADHDの影響でミスを完全に防ぐことが難しいにも関わらず、周りからは努力不足や注意不足としてしか捉えられず、何をどうすればよいのかも分からないまま、ただ苦しさだけが募りました。

過去の記憶との重なりと自己肯定感の崩壊


職場で叱責を受けた日の夜、僕は小学校の頃に宿題を忘れて叱られた日のことを思い出しました。どれだけ努力しても、人と同じようにできない僕が責められる瞬間。あの時の先生の言葉が、職場での上司の言葉と重なり、「僕はずっとダメなままなのだ」という思いが蘇ってきました。自己肯定感が崩れ去るような感覚を覚え、自分自身を責め続ける日々が始まりました。

人と同じことができないことの重圧と自己肯定感の低下


「普通」ができないことへの罪悪感


学校や職場での経験を通じて、僕の中で「普通にできることができない」という感覚が増していきました。周りの人は当たり前のように仕事をこなし、スケジュールを管理し、タスクを滞りなく処理しているように見えるのに、自分にはそれができない。「どうして自分だけがこんなにも大変な思いをしているのか」という疑問が頭を離れず、いつしか「僕はダメな人間なのだ」という自己否定感が日常の中に染み込むようになっていました。

自分らしさを失う怖さ


周囲と同じようにできないことへの罪悪感や自己否定感が強まるにつれ、自分らしさが何なのかも分からなくなってきました。周りに合わせようと努力することで、「僕は何をしても認められない」「周囲にとって迷惑な存在」としか思えなくなり、いつしか心に大きな壁を作るようになっていました。「僕はどれだけ努力しても他人と同じにはなれない」という無力感が、僕の心に深く根を下ろしていきました。

傷と共に生きる方法

傷を受け入れることの大切さ

自己否定感と自己不信に覆われ傷を受け入れることの大切さ


自己否定感と自己不信に覆われた日々が続く中、僕は「心の傷」とどう向き合うべきかを真剣に考えるようになりました。過去の経験や自分が受けてきた痛みを消し去ることはできません。でも、もしかしたら、傷を「なかったこと」にしようとするのではなく、「僕の一部」として受け入れることで、少しでも心が軽くなるかもしれないと考え始めたんです。

傷を消そうとすればするほど、かえって深く刻まれることがあるのかもしれません。だからこそ、今は無理に隠すのではなく、その傷を抱えたままでどう生きていくかを考えることが大切だと思っています。過去の出来事は変えられませんが、それを「自分の一部」として受け入れることで、自分に対する見方も少しずつ変えられるかもしれません。

「僕らしさ」を取り戻すプロセス


周囲と比べて自分を責めることばかりだった僕は、「僕らしさ」について考え直す必要があると感じるようになりました。周りと同じようにできないことが僕にとってのコンプレックスでしたが、逆にそれを「個性」として捉えることができれば、違う見方もできるかもしれないと思い始めました。ADHDを持つ僕には、僕なりのペースがあり、それが他人とは違うだけなんだと、自分に言い聞かせるようにしたんです。

「他人と同じようにできない自分」を無理に変えるのではなく、むしろその特性を活かせる方法を探すことで、少しずつ自分を認めるプロセスに入ることができました。例えば、僕はスケジュール管理やタスク分けが苦手なので、細かい管理が得意な人にサポートを頼むこともあります。ADHDの特性が原因で、人と同じようにできない部分もありますが、それを克服するのではなく受け入れることで、自分自身を少しずつ許すことができるようになってきました。

同じような経験をした人とのつながり


自分の傷を受け入れ、自己否定から抜け出そうとする過程で、僕は他のADHDを持つ人たちと話す機会を持ちました。共通の経験を持つ人と話すことで、自分が「特別にダメなわけではない」と感じられる瞬間が増えていきました。同じように悩み、傷つき、それでも前を向こうとする人たちとの交流は、僕にとって大きな力となりました。

誰かと共感し合うことで、僕の傷が少しずつ癒えていくような感覚がありました。また、他の人に自分の経験を話すことで、自己肯定感が少しずつ回復していきました。僕が今までの経験を話すことで、他の誰かの傷が少しでも軽くなるかもしれないと思うと、自分の過去にも意味が見出せるようになりました。過去の経験が無駄ではないと感じられることで、僕の心も少しずつ救われていきました。

「今の自分」を大切にする


過去の経験は、僕を形成する一部であり、今の自分にも大きな影響を与えています。でも、過去にとらわれ続けることで「今」を楽しむことができなくなるのは避けたかったんです。僕は、今の自分を大切にし、過去の傷を抱えながらも少しずつ前を向いて生きていく道を選びました。傷が完全に消えることはないかもしれませんが、それでも自分の人生を楽しむことを諦めたくないという思いが強くなりました。

毎日の中で、小さな達成や喜びを見つけるように心がけています。例えば、朝早く起きて散歩をしたり、気持ちのいい場所で好きな本を読む時間を作ることもその一つです。こうした小さな喜びを積み重ねることで、自己否定の代わりに、少しずつ自己肯定の感覚が増えていくようになりました。

最後に


傷ついた心の傷は一生残るかもしれません。でも、その傷を否定するのではなく、むしろその傷と共にどう生きるかを考えることが、僕にとっての前進の一歩です。過去の苦しい経験も、自分を形成する大切な一部と捉え、その一部を受け入れることで、僕はこれからも自分らしく歩んでいこうと思います。

僕が歩んできた道は決して平坦なものではありません。でも、同じような痛みを抱える人たちに「傷は決して無駄ではない」と伝えられる存在でありたいと思っています。僕はこれからも、自分のペースで少しずつ、心の傷と向き合いながら生きていきます。それが僕にとっての「前を向くこと」であり、「僕らしく生きる」ということです。


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