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投稿22日目 「平等と公平」

学校教育における「平等」と「公平」について書きたいと思います。

昔の教育は平等で「誰でも同じようにできる」が求められていた。それを達成するために、成績という点数で評価が決まる制度になっている。今もその流れは大きく変わっていない。ボトルネックとなっているのは、学校制度の目標が、「人を育てる」より「次の進路先に進ませる」ことに主眼を置いた構成になっているからである。

最近、変わってきた感があるが、そもそも学習指導要領の改訂は10年に一度であり、中学、高校では「良い成績をとる人」が「素晴らしい人」であるという評価がまだ根強い。一社会人の私からすると、「勉強ができる」ことより、人間的な力、例えば、誰かと気軽に話せる、頼ることができる、その場所の雰囲気を明るくできる、どんなことがあっても前向きに行動ができる。こういった力の方が必要とされているし、社会の中で、認められていくポイントだと思う。

今の学校教育ではどんな教科も高得点を取れる「何でもできる」人を育てているが、社会としては「そこそこのことはできる特徴の無い人はいらない」というミスマッチが起きている。もちろん、突き抜けて全ての能力値が高い人間は必要だ。中途半端な人間と、突き抜けた特徴を持つ人間であれば、突き抜けている方が価値がある。大概の仕事は「誰でも」できる。価値を生み出すのは「私」しかできない仕事だ。それは突き抜けた特徴を磨いた先にあると思っている。

さて、ここで「公平」について考える。大前提として、人間は不平等であり、能力も、持っている資源や環境も異なっている。だから、一人一人打ち手が違うのは当然である。

その上で、各個人が、「どんな特徴を伸ばしたいか」を考え、そのために時間を使っていく。勉強は「やらなくてはいけないもの」だから授業の時間は苦痛だし、学校以外の時間では勉強するなんて考えられない。宿題はこなしているだけ。この状態から、自分が学びたい、自分の人生をこうやって生きていきたいと「目的」を持つようになれば、生きている時間全てが学びだし、流れていく日常を意味のあるものに変えることができる。

もちろん、学ぶこと、頑張ること、好きに生きることだけが「人生」ではない、大事なことは「選択肢」があること。「あなたが選べる」ということ、選択できるということは幸せに繋がる。

これからの社会がより「公平」に、どんな生き方も許容される「多様性」を持った幸せな社会になるよう。私は学んで、行動を続けていく。



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