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【ピリカ文庫】桜の木の下で
桜の木の下で私は待っている
今日もあの人が来るのを私は待っている
川辺を吹き抜けるまだ冷たい風
揺れ落ちる白い花びら
待つのは別に苦じゃない
待っている間ずっと
あの人のことを考えていられるから
今日もあの人のごつごつとした手に引かれ
川沿いの道を歩くだろう
時折、足を止めて
私が用意した紅茶を水筒の蓋で交互に分け合い
おいしいね、あったまるね
と言いながら飲むのだ
それにしても、今日は来るのが遅いな
私は手提げから本を取り出し
桜の木の根本に寄りかかってページを開く
あの人のことばかり考えているからなのか
文字がぼやけてみえた
🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸
4月と言っても夕方はまだ肌寒い。
川向こうに日が沈みはじめ、川面がピンク色に染まっている。
水鳥は夕日に向かい飛んでゆく。
桜の木の下に一人の老婆が立っている。
上着を抱きしめるようにして、遠くの方をじっと見つめている。
うちのお祖母ちゃんだ。
いつものように母からお祖母ちゃんを迎えに行って来て、と頼まれた。
ここ何年かの、春の私の毎日の日課だ。
桜の蕾が開く頃になると、お祖母ちゃんは昼食後に出かけ、ここに来る。
そしてただひたすら桜の木の下に立ち、遠くを見ている。
お祖父ちゃんを待っているのだ、と母から聞かされた。
お祖父ちゃんはもう10年ほど前に亡くなっている。
毎朝、仏前にお線香をあげているのに、昼過ぎになると忘れてしまうのか、お祖母ちゃんは水筒に紅茶をいれてここに来る。
お祖父ちゃんとお祖母ちゃんはとても仲が良かった。
お祖父ちゃんの葬式の日、焼かれる前に「私も連れてって」と棺にすがり、お祖母ちゃんは泣いていた。
でも、葬式が終わると次の日からは、普通に明るいいつものお祖母ちゃんに戻っていた。
お母さんもそれを見て安心したと言っていたのに。
まわりの木より一際大きな桜の木の下に向かってゆっくりと歩く。
この木はもう何年生きているのだろうか、なんて考えながら。
お祖母ちゃんは私の存在などまるで気にも留めていないように、遠くを見つめたままだ。
いつもそう、少し悲しくなる。
「お祖母ちゃん、寒くなってきたからもう家に帰ろう」
そう声をかけてみる。
「ほら、もう日が沈んで真っ暗になっちゃうよ」
なんの反応も返してくれない。
これもいつもと同じだ。
私はお祖母ちゃんの手を取り、肩を抱いて向きを変える。
皺くちゃで冷たく骨ばったお祖母ちゃんの手は、強く引っ張ったらすぐに折れてしまいそうだ。
「あなた、早く私を迎えに来てちょうだい」
夕日を振り返りながら、お祖母ちゃんはそう呟いた。
風に舞った花びらが一枚、お祖母ちゃんの髪にとまり、また飛んで行った。
次の年、お祖母ちゃんはあの桜の木の下へ行くことなく、家で静かに息を引きとった。
焼かれて灰になったお祖母ちゃんの一部を、ビニールの袋にひと握り入れて持ち帰り、桜の木の下で放った。
「お祖母ちゃんがまたお祖父ちゃんと出逢えますように」
私は手を合わせてそう祈った。
お祖母ちゃんの体の一部だったその砂のような灰は、つむじ風に巻かれ、桜の白い花びらと共に宙空へと舞い上がり、太陽の光を受けてキラキラと輝いた。
「私もいつか素敵な人と、ここで待ち合わせをするんだ。だからそれまでずっと元気に毎年きれいな花を咲かせてね」
私はそう桜の木に話しかけ、その幹に抱きついた。
風が葉を揺らす音に混じって、お祖母ちゃんとお祖父ちゃんの笑い声が聞こえたような気がした。
🌸🌸🌸 ❮おしまい❯ 🌸🌸🌸
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