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歌詞読んでみた lyric.9 / エッセイ「続けるために必要なことは」

10月はなにかと忙しかった。なにをしていたのかよく覚えていないくらいせわしない1カ月を過ごした。

『月夜見海月』の記事も、思い浮かんできたよしなしごとに取り掛かることもできず、上手な時間の捻出や使い方をもうすこし考えなくてはと案じながら、歌詞の書き起こしは月の半分の15曲ほどにとどまってしまった。よもやこの連載にピンチが!かと思われたのだが、幸運にも良い巡り合わせのおかげで、貴重な機会の中で良い歌詞を読むことができた。

これまでの人生振り返ってみても、なにかが大変や困難が目前に表れた時に必ずといって良いほどそれを回避したり軽減するようなギリギリセーフなことが起きてきた。

反転して幸運のあとに不幸が来ているという見方もできるのだが、「わたしは幸運だ」と思っている人々は運のスタート地点を不幸にセッティングしているから幸運でいられるのかもしれない。聞いた話では危険地域に赴く人は出発前にパチンコ屋に負けに行ったりするそうだ。

脳内ラッキー野郎であるわたしは帳尻が合う程度の幸運によって今月をなんとかやり過ごせてきたと思うことにした。

いまいちど幸運を噛みしめながら10月度の「歌詞読んでみた」始めます。



MOSAIC.WAV『片道きゃっちぼーる』
作詞:柏森進

ムリにねじって ドーナツになるより
そのまま手をつないで
ズレた世界で今日もおはよう

MOSAIC.WAV『片道きゃっちぼーる』より

『ガチャガチャきゅ~と・ふぃぎゅ@メイト』でお馴染みのMOSAIC.WAV。逆にこれしか知らなかったのだが、ある日友人と00年代のアニメの話になった時にアニメ『ぽてまよ』の主題歌が良いよ、と教えてもらったのがこの曲。

まず心をつかまれたのは言葉遣い。言葉遣いはその人の住所を教えてくれる。オタク口調、ヤンキー語、ビジネス用語など、言葉遣いはその人の生活圏が表れる。字に性格が出るとは言うが言葉遣いにはコミュニティが出ると思う。

特に表れているのが、サビに登場するオノマトペ「ほにほに」。ぽてまよの鳴き声でもあるこれは、まさに”萌え”アキバっぽい。他にも「コピー&ペースト」や「ダイアログ」、「2コマ」などITやゲーム用語など、2008年リリース当時のアキバを象徴するようなエッセンスが萌え声で放たれるこれぞまさに「AKIBA-POP」といった楽曲だとおもうのだが、歌詞はというと、込められたメッセージは現代にも通づる他者との共存をテーマとしている。

見た目は“猫耳(実際は角)の幼女”だが実は謎の生き物「ぽてまよ」と、その「保護者」森山素直の周りで巻き起こるできごとを描くなごみ系4コマ漫画

wikipedia「ぽてまよ」作品概要より

冒頭引用した通り、ムリなコミュニケーションは人間関係をひずませてしまうからみんなズレたままで仲良くいよう、とこの歌詞は云う。

2008年当時、深夜アニメを見たことがないわたしはいわゆるオタクという人間ではなかった(後に発覚)けど、当時のオタクに対する冷ややかな視線はなんとなく知っていた。その頃の風潮や風当たなどに思いを巡らせながら聴いていると、いじらしさがこみ上げてくる。とてもかわいくて、すごくやさしい曲です。


峯田茉優『アイシダイ』
作詞:WEART

好ハオ!好ハオ!
愛には限界がないの 尊いとうとい来い濃い恋

峯田茉優『アイシダイ』より

この楽曲を歌っている峯田茉優は無機物が好きなのだそう対物性愛(object sexualityやobjectphilia)ともいったりするそうだが、彼女のそれがLIKEなのかLOVEなのかは彼女のみぞ知るところだが、この世にごまんとあふれかえるラブソングの中でも無機物へのラブソングというだけでも相当珍しい1曲だ。

そんな彼女の無機物愛を濁流のように畳みかけ、無理やりにでもわからせよう深く深く押し込むような韻の連打が気持ちの良い本楽曲は脈ナシの彼への愛を叫ぶだけにとどまらず、ありとあらゆる様々なセクシュアリティやパラフィリアに対して、外野の冷ややかな視線に気を取られるのではなくその大切な愛に誠実にあるべきであると、臆面もなく開放することを全肯定している。

ひとつお伝えしたいこの歌詞の素晴らしく巧みなところがあるのだが、この歌詞が頑として持ち合わせている、様々なセクシュアリティやパラフィリアをすべて一挙に請け負うぞ、という訴えが「来い濃い恋」という同音異義語のたった6文字に凝縮されているところだ。抑圧された偏愛のようにグツグツと煮えたぎる6文字が歌によって飛び散る解放感は聞いていて気持ちが良い。

あなたのひそかな偏愛をこの曲に託してみてはいかがでしょう。


欅坂46『二人セゾン』
作詞:秋元康


欅坂46をオススメいただきました。このアカウントの性質上秋元康の歌詞をたらふくオススメいただくのですが、名曲と名高い『二人セゾン』ということで楽しみにしておりましたふつうに良い曲でびっくりしました

さて、肝心の歌詞の方はと言いますと、外部との接続を拒否していた僕が君に連れ出されて世界とつながりを実感する様とその日々を季節(セゾン)にのせて描いているところが美しい

この「セゾン」とは単に季節をあらわしているのではなく、変化の移ろいそれ自体を指していて、その変化は突如現れた君によってもたらされる。

僕が外部と接続していない様子を「道端に咲いている雑草にも名前があるなんて忘れてた」と表し、「気づかれず踏まれても悲鳴を上げない存在」と重ねるところが、この僕の置かれている半径1mを端的で十分に説明していてスマートだ

そんな僕は君といるようになったことで世界は径を広げながら色を変えてゆくのだが、同時に儚くも感じる。変化には動きの後ろに残される捨てられ、忘れ去られる存在がつきものなのだが、この歌詞の儚さとは多くを語られない君の不確かさなのかもしれない

確かにそこに君はいて僕を連れ出してくれたに違いないのに、わたしには君の存在が想像しきれない。僕を介さなくては君の存在を確かめることができないのだが、だからこそわたしたちが及び知ることができない、僕と君だけの世界を描けるのだろう

気が付けば季節は11月になった。秋と冬の移ろいを感じながらあらためてこの曲を聴こうと思います。オススメありがとうございました。


Guiba『蛙』
作詞:アカツカ

感動が化けていた 誰も気づかない内に
急に悲しいこと言うの 静かに消えていく

Guiba『蛙』より

オススメいただきました。かぶりなく行数を数えると6行ほどに収まってしまう実にシンプルな歌詞だけど、それだけ広がりがある歌詞だなとおもいました。

引用した箇所には心当たりがあって、それは当アカウントで連載している番組の感想との向き合い方だ。ながい月日が経ち、連載に対してわたしの向き合い方や番組の構成員や内容が当然ながら変化し続けている。

番組の感想を書き始めたあの日にわきあがっていた情熱や興奮は、いま現在日常という下火になっている。誤解して欲しくないのですが、番組は毎回楽しいしわたしが対する情熱が消えたわけでは決してない。続けていくうちに得たたくさん読者の方々に楽しんでもらえるものをと思い、テキストと向き合っている所存は今も昔も変わらない

しかしながらわたしは今もどこかであの日の火影を自らの内に求めてしまう時がある。この歌詞のようにふとした間に火が消えてしまうのではないかという不安が時折わたしを襲うのだが、一方でこの5年間つづけてきたことでこのアカウントの形がおおきくなっている実感がある

この「歌詞読んでみた」やエッセイを書き始めたりと、ただ『日向坂で会いましょう』の感想を書くだけだったアカウントが独りでに大きくなっているのは確かだ。

冒頭に引用した歌詞を最初に見た時はすこし寂しいことを言ってるような気がしていたのだが、ここで描かれているのは風化ではなく形骸化なのかもしれない。形だけが残ったそれを見るとそこに満たしていた何かを幻めかせる。そんな寂寞を歌ってるのではないかなと思いました。


エッセイ「続けるために必要なことは」

noteの毎週更新をはじめてから5年くらいが経とうとしている。いや、もうすでに経過しているかもしれない。「継続は力なり」とは言うけれど、その継続という力の正体をわたしは知らなかった。

時々noteの読者の方とお会いしたりすると「毎週つづけられてすごいです」とたまに褒めていただくけれど、ぶっちゃけてしまうと、わたしが毎週欠かさずnoteを更新しているなんて誰でもできることだと思ってる節があり、なのですごくもなんともないと思ってしまっている。

文章が書けたらカッコいいだろうなと筆を取ってから5年ほど毎週書いているわりに、文章力はわたしの継続直線に反して目立ったカーブを描くことなく成長曲線は[x=今日]まで伸びている。継続で得られる力というのはどうやら単利計算じゃないらしい。

むしろ、書けば書くほどに”文章力”への解像度があがっていく。語彙、構成、表記、仮名遣い、レイアウト、修辞表現、エトセトラエトセトラ…、書けば書くほどにわたしの現在地が沈んでゆくようで、泥濘のごとく苦しくて冷たい。

ただ、この趣味は人生をかけてながく付き合おうと決めているので、わたしの不出来ごときで気分を左右されることはあまりないのだが、毎週更新という形式には振り回されることばかりである。こんなことなら夏休みのスケジュール表をもうすこし真面目にやっておくんだった。

そこでわたしは考えた。”続ける”とは何か継続には何が必要なのか。日記、ジム通い、読書、勉強、あなたもいろんなことを三日坊主で終わらせてしまってきたことだろう。ここからはわたしなりの仮説に基づいて、大変だと思われがちな”続ける”の誤解を解いた思案をみていただきたい。

まずわたしは継続だと認定するには間隔最低限の2つの条件があると仮説を立ててみた。わたしの場合は毎週、1000字この2つが達成されたとき初めて人は「継続できた」という赦しを自らに得られるのではないのだろうかと考えた。

ではその間隔はどこまでなのか。どれだけ間が空くと”続かなかった”になるのか。期間をみてみよう。

毎日もちろん継続だ。毎週、週刊少年ジャンプ、これも継続毎月、ジャンプにはかつて月刊があった、継続

毎年はどうだろうか。ゴールデンボンバーの鬼龍院翔は毎年1月1日に短期バイトをしている(以下の記事の通り、現在もつづけられているかは確認不可)。つまりこれも継続

それ以上の長期間はさすがに継続とはいえないか。いやいや、そんなことはないオリンピックは4年に1度開催される。

とこんなふうに、継続に明確な線引きなど存在せず「続けたいな」「続けられた!」と納得できればそれは立派な継続なのだ。あなたが続いてないと思っている事も案外続いていることかもしれない。だからわたしがnoteを続けていることはすごくもなんともないのだ。

もうひとつの条件”最低限”というのも、500字でも140字でもいい。ジムに通うなら「10回3セットやる」でもいいし「道具に触る」でも、なんだったら「建物に入る」だっていいとおもう。

継続の本質はどこまで自分を赦せるかなのかなと最近思うところがあり、忙しさにもまれて日課が疎かになりそうな時には最低限をちょっと下げるズルをしてなるべく赦す方向に気分を運んでいる。

理論立てるならもう少し詳細を詰めたほうがいいが、結論として”続ける”ためには自分を赦すゆるい規律を制定すること。そうするほうが気が楽だということがわかった。

日記は毎日、毎月、毎年に一度、ジムは10回3セット、バイクを漕ぐ、道具に触る。わたしと一緒に最低限がんばっていきましょう。


以上、10月度の「歌詞読んでみた」になります。本稿の感想やおすすめの歌詞などは、本稿コメント欄、XのリプライやDMにお願いいたします。ご感想をいただけますと大変励みになります。また、すべてのオススメ曲にお答えできない場合がございますが、なるべく取り上げさせていただきたいとおもいます。

それではまた来月に。

おしまい。

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